パワー トゥ ザ パワー




大きな力が、日本のメディアの中で存在している、という点で、頂点に並列する存在が3つあった。
それぞれが、多くの企業媒体を傘下に置き、目に見えない複雑な経路で、絶対的な支配力を持っていた。
勿論、岩城と香藤、それぞれの事務所も、その時々の仕事内容により、何らかの形でそれらのどれかに関わりを持つこともあり、また、全く関わらないこともあり、そうしながら、大きな波の中を問題なく泳いでいた。今までは。


「ちょっと良いかも・・・」
そう言って、香藤が脚本を手に、岩城の元へ擦り寄ってきた。
香藤が手にしているのは、今度オファーがあった『大きな愛と小さな同情』という映画の本だった。
夕方から真剣に目を通していた香藤が、目を輝かせて、そう感想を述べた。
「そうか?良かったじゃないか。監督もいいし」
岩城は、自分のことのように、喜びを素直に口にした。
オファーがきたこと自体、喜ぶべきことだが、その上に、香藤がその役どころを気に入れば、なおいい。是非、成功して、香藤の役者としてのプラスになって欲しい。
特に今の、仕事を制限されている状態での主役、という好条件であれば、より一層そう願う岩城だった。
「うん。なんか、この話って、凄く深いし、演技力も求められるだろうけど、そんな役、振ってくれて、感謝っていう感じ」
香藤は、「はい。岩城さんも、読んでみて」と、本を手渡しながら言った。
実際、読んでみると、確かに素敵な話だった。
映画の中での香藤が演じるのは、盲目で7歳年上の、人生に諦めと失望を感じて生きている女性に、自分が寄せる感情、それが愛であるか、単なる同情であるか、という、自分の中の感情を模索し、苦しみ、そして最後は、その女性と生涯を共に生きる決心をする、そういった役だった。
この中での主役は、否応なく観る側に好感を与え、感動も呼ぶだろう。
また、監督が、香藤の演技力を求めてくれたことも、岩城は嬉しかった。
こうやって、香藤の事務所へ出演依頼がきた『大きな愛と小さな同情』、その映画のスポンサーは、3大勢力のうちのひとつ、「クオリティー・ジョイント」だった。



出演を決めた香藤と事務所は、監督にも会って、この映画への、さらにいい感触を得た。
主役に香藤がいいのでは、と、監督自身、本を見たときから考えていたところ、スポンサーも快い返事が直ぐに返ってきた、と、言われ、悪い気はしなかった。
そして、監督が、最後にこう口にした。
「では、クオリティーの社長に、会ってください」と。



その数日後、会席が設けられた。
クオリティの社長、石垣元哉は、「香藤ひとりで」と、告げてきた。
約束の日時に相手が用意した料亭へ、香藤はひとりで訪れていた。
部屋に入ると、そこには既に、石垣が座っていた。
石垣元哉、彼は、親からの2代目にあたる『クオリティ・ジョイント』の現社長で、47歳。大学を卒業後、直ぐにクオリティに入社し、若いときから既に、親の傍で才覚を顕著に表しながら、38歳の若さで社長に就任した。
親は会長として、健在ではあったが、会社は既に、完全な彼の権限のみで動く体制がひかれていた。
並列する、と言ってみても、今現在においては、この石垣が率いる『クオリティ・ジョイント』が、頭10個分くらいは、優に秀でた権力を持っていた。
つまり、ここに睨まれると、日本のメディアでは生きていけない、と、言われるほどだった。


「やあ、いらっしゃい、どうぞ、そちらへ座ってください」
そう笑顔で香藤を迎えた石垣は、そんな背景を感じさせないラフなムードを持って、香藤を少し安心させた。
ひとりで、と言われ、石垣ほどの人物と1対1で会うことに、やや腰が引けていた香藤だった。
品の良いスーツに身を包んだ石垣は、自己紹介はいいですね、と言いながら、名刺を差し出した。
そこには、「クオリティ・ジョイント 代表取締役 石垣元哉」と書かれていた。
「始めまして。このたびは、映画に出させていただいて、とても光栄です。ありがとうございます」
モスグリーンのシングルジャケットスーツに白のシンプルシャツを合わせた姿で、それでも華やかなムードを匂わせた俳優は、頭を下げて挨拶をした。
「飲むでしょ?まずはビールでいいかな?」と言って、石垣はニコッと笑った。
内心、香藤は、とても喜んでいた。金と権力を持つ人間に対しての防波堤が、少しずつ消えていた。
石垣は、こういった世界の上に立つ者によくありがちな、威圧的な風格がなく、やや耳にかかるくらいの髪を自然に流して、知的な面持ちで、自然な風を携えていた。
ビールが運ばれ、互いに順次運ばれる料理に手をつけながら、映画の内容が素晴らしいことをベースに、香藤も、また石垣も言葉が弾んだ。
1時間余り過ぎた頃、ほぼ料理も出揃い、酒も結構入った段階で、石垣が仲居にひと言「もういいから」と、出入りを断った。
空になっている香藤のグラスへ、氷と冷酒を注ぎながら、「香藤くん」と、石垣が言った。
酒を注いでもらうのが申し訳なく、すみません、と言いながら、自分で注ごうとした、その手を払って、石垣は香藤の前にグラスを置いた。
置きながら「岩城くん、今度、どうかな?食事に誘いたいんだけど」と、何でもないことのように口にした。
香藤の体に、瞬時に冷却水が流れた。
不釣合いな場所で、不釣合いな人間から岩城の名を口にされ、香藤はその目の前にある、石垣の顔を見た。
石垣の表情自体は、先までと変わらぬ温和な笑顔を浮かべていた、が、その眼の奥にある光は、全く違うものに変化していた。
今まで少しも感じられなかった力と権力そのものの光が、その中には宿っていた。
「・・・食事・・・・ですか?」
「そう、食事」
「・・・それは・・・いったいどういう・・・」
「別に、ただ、彼と食事がしたい、それだけだ」
「・・・それを、俺に設定しろ、と・・・」
「うん・・・彼に打診してもらえると、助かるんだけど」
香藤は、即座に返したいセリフが山のように頭を駆巡りながら、しかし、この相手に、不用意な発言をすることは避けるべき、と、ある程度永く身をおいている芸能生活が教えていた。自分だけへの迷惑にとどまらず、事務所までその影響が回る、そう考えられた。
香藤は言葉を選びながら、答えた。
「・・どうして、ご自分でおっしゃらないんですか?」
「礼儀、かな?」
「礼儀?」
「そう、礼儀。君を通すことで、僕としては最大限の礼を尽くしているつもりなんだけど、ね」
もう香藤は、グラスへは手をつけなかった。
この部屋の空気は一変していた。
先までの、心地よい酒席は、ゆがんだ密談の席に変わっていた。
石垣が、ただの食事、と言っている食事が、重く香藤の胸に沈澱していった。
言葉に窮している香藤を前に、石垣がやんわりと言葉を重ねた。
「香藤くんも大好きな俳優さんなんだけど、岩城くんも大好きなんだ。またいつか仕事で縁があることでもあればと、そう思ってるんだけどね」
「では・・・その食事、俺も一緒に、お誘いいただけないでしょうか?」
そう言う香藤を、石垣がちらっと見て、少し声を改めて言った。
「香藤くん。それ、本気で言ってるんじゃないよね」
「・・・・・・本気です」
石垣は小さく溜息をついて、背もたれにゆっくりと体を預けた。
香藤は、たぶん自分の顔が、怒りにゆがんでいるだろうと、そう感じながら、しかし、それを取り繕うゆとりも、またそうする気もなかった。
「どうしてそう考えるの?岩城くんひとりじゃ、駄目だと。僕は今日と同じように、ただ岩城くんと2人で食事をしたい、そう言っているだけなんだけどな」
卑怯な言い回しだ、と、思った。そう言われてしまうと、香藤にはそれ以上を、むやみに詮索して口にすることが出来ない。石垣が、ただの、と言っている以上、それがただの食事以上、である可能性を追求することは難しい。
そうは思っても、しかし、香藤には、「はい」と、簡単には答えられるわけがなかった。
「・・・・石垣さん・・・どうしても、岩城を誘わなくては駄目ですか?」
香藤は、この場で出来る、最大限の表現で、自分の不快な思いを口にした。
そんな香藤をじっと見ていた石垣は、タバコを取り出して、ライターで火をつけ、それをテーブルに置いた。
シルバー仕上げの、中心に小さなダイヤが埋め込まれ、その下にM.Iとイニシャルが彫ってあるライターだった。
煙を吐いて、目を閉じると、今日、初めて、石垣は、権力を口に現した。
「今度の映画、是非、君にやってもらいたい、と、僕は思っている。そのための協力を、岩城くんは惜しまないと思うよ」
さすがに香藤の頭にも火がついた。
震える声で「石垣・・さん!!」と、言い、俺は、と、続けて口に仕掛けた香藤を、石垣が、「それ以上は、今は、口にしないほうがいい」と、さえぎり、タバコを灰皿で揉み消した。
ライターを手に腰をあげると、さっさとひとり、香藤を残したまま、その場を去ろうとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってください!!石垣さん!!」
そう声を荒げて腰を上げかけた香藤へ、石垣は背中で言葉を突き刺して、襖から出て行った。
「安易な結論は、多くの人間を不幸にするよ」と。
ひとり残されたまま、石垣が礼儀、と口にした言葉を、香藤は頭で「何が礼儀だ!」と、悪態をついていた。
石垣は、自分を通すことで、その元にある目に見えない、今現在の力関係を、確認させておきたかった、ただそれだけに過ぎない。
君達に選択権はないんだよ、と、そう言われているも同然だった。
香藤の右手が硬く握り締められ、小刻みに震えていた。



そして、その映画の出演依頼に対して、香藤がはっきりと、断りたい、という自分の意思を事務所へ伝えたのが、石垣と別れてから3日後だった。
当然、直ぐにそのことは岩城の耳にも入った。
香藤の話を聞いた事務所は、勿論、そんなたわ言は聞き流していた。そんな事は聴けるわけもなく、スポンサーを考えれば、今更断るなど、考えも出来ないことだった。




仕事から帰宅していた岩城は、ソファーに座り、苛立ちを抱えながら、香藤が帰るのを待っていた。玄関が開く音がして、「ただいま」と言う、明るい声と共に、香藤が居間へ入ってきた。
待ちかねたように、岩城は「香藤、ちょっと話がある」と、立ち上がり、幾分強張った声を発した。
「なに?」と、そう答えながら、香藤には、岩城が自分に何を言おうとしているのか、既に判っていた。
今、2人の間で、岩城にこんな表情をさせる問題は、たったひとつしか考えられなかった。
「お前、映画の話を断ってる、っていうのは本当なのか?」
「うん」
そう何気なく答えて、香藤は岩城の前を通りソファーへ腰を下ろそうとした。
その香藤の腕を掴んで、岩城は声を荒らげた。
「うん、って、お前、いったいどういう了見で、この話を断るだなんて考えになるんだ!!」
「べつに・・・ただ、よく考えてみたら、俺には向いてないかな、って、そう思ったから」
「向いてないっ!?」
「そう・・・この役、俺は違うかな、って」
「それだけか?それだけの理由で、話を断ったのか!!」
「そう、だって、それって、結構大切なことでしょ?」
「・・・香藤・・・お前・・・!!」
知らず岩城が香藤の腕を掴んでいる手に、力が入っていた。
「岩城さん・・腕、痛いって・・、もう、大丈夫だよ、そんな、心配しなくっても、ちゃんと・・」
そこまで口にした香藤の腕を、岩城は力ずくで引っ張り、その体をソファーへ投げつけた。
「何がちゃんと、だっ!!何が大丈夫だっ!!お前は・・・お前はまた、前と同じ事を繰り返すつもりなのかっ!!」
肩で息をしながら、ソファーに傾いた体をそのまま預け、肘をついている香藤を、岩城は睨んだ。
「判ってるのか?クオリティを向こうに回して、どうなるかっ!!」
香藤は黙っていた。
そんな香藤に苛立ちを隠せない岩城は、「香藤っ!!」と、大きな声を頭上からたたきつけた。
岩城の声の余韻が漂う中、しかし以前、香藤は無言で、ソファーから床を見つめていた。
再び声を上げようと、口を半分開きかけた岩城は、その声をしまい込み、膝を折って香藤の前に腰を下ろすと、香藤の両腕を両手で掴み、見上げながら再び口を開いた。
声色はやや弱く苦しいものに変化していた。
「どうして、そんな事を言う!!そんな事が判らないお前じゃないだろ!!俺は信じない。ただ向いてない、なんていう理由で、お前がこんなことをするはずはない!!」
自分の前で膝を折り、必死で訴える岩城の瞳を、香藤は顔を上げ、じっと見つめた。
自分が、こんなことをするような人間ではない、と、心から信じて訴える岩城の言葉を、やるせない思いで聞いていた。
悩みに悩みぬいて、出した結論だった。
ただの食事がそれ以上の意味を含んだものである、と、そう香藤に思わせる臭いを、あの夜の石垣は放っていた。いや、暗に石垣は知らせたかったのだろう。
それを承知した上で、岩城にコンタクトを取れ、と。
それは、香藤に、「自分のために石垣と寝てくれ」と、岩城へ頼むことを示唆していた。
最大の権力を駆使して投げかけられた石垣の提案は、石垣にしてみれば、今まで使ってきた手段のひとつに過ぎず、多分、ノーと言えた人間は、いなかっただろう。
そういった点で、石垣は、この2人の関係を、甘く見ていた、とも言えた。
少なくとも香藤に関しては、完全に読みを間違えていた。
石垣が考えていた、自分がストレートに誘えば、岩城本人がイエスと言わない、その可能性を避けるために、香藤から、という道をとった。可愛い香藤のキャリアのために、岩城は必ずこの話を受け入れる、という読み、それは、それ以前に、香藤が岩城にその事を頼むこと自体ありえない、という、大きな点を見誤っていた。
頼む、どころか、こういったことがあった、という、その経路そのものさえ、岩城にたどり着くことはない。
石垣と自分が何をあの場で話したか、口にすれば、説明は容易い。十分納得しうる理由を、岩城に提示することも出来る、が、と同時に、岩城に、あるひとつの深い選択の道を与えることにもなる、いったいどうすれば香藤が映画を撮ることが出来るのか、という。そんなものを岩城に、たとえそれがどれほど馬鹿げた選択肢であるとしても、知らせ、苦しませたくはなかった。香藤を黙らせる理由はそれだけではなかった。
香藤には、岩城を信じながらも、完全に払拭できない不安があった。もしそれを岩城が知れば、岩城が自分のために犠牲を払う、その可能性が100パーセントない、とはいえない、という不安が。
その僅かな不安も含め、香藤は黙り通すしかなかった。
自分が仕事を断ることが、どれだけ岩城を苦しめ、心配を与えるか、十分すぎるほど、香藤は知っていた。
しかし悲しいかな、これが一番傷が浅くて済む手段でもあった。自分にとっても、勿論、岩城にとっても。
「・・・香藤・・・教えてくれ・・・いったい、何があったんだ・・・どうして、こんな無茶をするんだ・・・香藤・・」
切実な悲哀と苦悩を感じさせる、目の前にある岩城の顔を見つめながら、香藤は「岩城さん・・」と小さく呟いた。
そして、その顔を両手で挟み抱くと、ひと言、「愛してる」と口にして、唇を重ねた。
岩城はその唇から逃げると、「お前!!判ってるのかっ!!」と、再び声を荒らげた。
そんな岩城の体をソファーの上から抱きこみ、自分の膝の間へ引き上げると、再び「愛してる、岩城さん」と、静かに声をかけた。
抱き上げられた体を抵抗させながら、「何、言ってるんだっ!!俺の話をちゃんと聞いてるのかっ」と岩城は懸命に怒鳴った。
そんな抗う岩城の体を、一層力を込めて、痛いほどに抱きしめると、その背中で
「愛してる・・愛してる・・岩城さん」と、香藤が、何度も言葉にした。
「・・か・・・とう・・・」
強く抱かれながら、岩城はその腕と声に抵抗を止めた。言い表せないほどの強い不安と悲しみを、香藤から感じていた。
「・・・お前・・いったい、何があったんだ・・・」
既に岩城は、責める気持ちが失せていた。
永年のうちに、互いの感情を、誰よりも正しい呼吸で汲み取ることができるようになっている。
岩城は今、香藤の声に、強い迷いとジレンマを感じていた。
そんな岩城の、動かなくなった体から、腕の力を少し緩め、香藤は無言で唇を合わせてきた。
近づく香藤の唇に、岩城は黙って眼を閉じた。
優しい、慈しむような舌が、岩城のそれに絡まってきた。
香藤の髪に指を絡ませながら、岩城は、今は、これ以上、追及できない、と思った。
また、香藤は、岩城の首筋に舌を這わせながら、けっして岩城が納得したわけではない、と、思っていた。
しかし、今は、もうこれ以上、互いに、相手の苦痛に満ちた表情を見たくなかった。
どちらが口を開いても、相手を苦しめる、それだけだと、2人ともが判っていた。





「香藤さん、無茶ですって。いったい、どうしてなんですか?」
車で移動中、金子が口を開いた。
「ごめんね、金子さん、心配かけて」
後ろから、香藤が答えた。
「いえ、そんな事じゃないんです。心配なんて、いいんです。そうじゃなくて、これ、断るのは絶対無茶です!!」
「・・・・判ってる・・・」
ポツンと答える香藤へ、金子は必死で言葉をかけた。金子としてみても、何とかこの事態は打破したい、それは、事務所のためでも自分のためでもなく、永年面倒を見てきた香藤のため、ただそれだけだった。
「判ってらっしゃって、何故なんです。事務所は絶対に、クオリティに断りは入れませんよ!」
「・・・やっぱり、駄目かな・・・」
「そりゃそうです!!1度OKを出したものを、ただでさえ降板なんて大変なところ、相手がクオリティですよ。石垣さんを向こうに回して、事務所が素直に断るなんて、ありえないですよ」
「・・・・そっ・・か・・」
人事のように、窓を見ながら呟く香藤へ、金子は、今までにない不安を感じていた。
「香藤さん・・・・石垣さんと何かあったんですか?」
もう香藤は何も答えなくなった。
社長にも同じ事を尋ねられ、結局、話がそこまで来ると、誰を相手に話していても、ただ沈黙するしかない香藤だった。
やはり自分が動くしかない、と、そう香藤は考えていた。自分自身で、あの夜の話に対しての決着をつけなければ、誰も動きはしない、と。
香藤は、その日の夕方、スタジオの控え室で、石垣本人に、自分から電話を入れた。



「やあ、こんにちは、やっと電話をくれたね」
余り聞きたくもない声が、長々と回線が切り替わりながら待たされて、やっと耳に響いてきた。
「はい。出来れば、お話はしたくはなかったんですが、俺が言わなければ、事務所は動いてくれそうにないので」
「それは?どういうこと?」
「今回の映画、俺は降ろしていただこうと、そう決心しました」
少し沈黙が生じた。石垣が香藤の言葉の続きを、黙って促していた。
「・・・せっかくのお話をお断りして、大変申し訳ないのですが・・・」
「そう・・・残念だね」
「はい・・・俺も、とても残念です」
「事務所は?」
「・・事務所は、まだ説得出来ていません。いずれ根気良く、話すつもりです」
「で?」
余裕の声色が、癪に障るほど淡々と、石垣の口から返ってきた。
しかし、香藤は話しを止めるわけにはいかなかった。
「ですから、先だってお願いされた件は、忘れてください」
「・・・岩城くんがそう言ったの?」
「いえ、俺が自分で、そう決めた、それだけです。岩城は何も知りません」
「そう・・・・判った」
ただそれだけ言葉が返ってくると、あっけないほど一方的に、電話は切られた。
香藤は切られた回線に、釈然としない思いを抱えながら、しかし、とにかく、断りは入れ自分の意思は伝えた、という、僅かな安堵を感じていた。
それは、本当に、ほんの僅かなものでしかなかった。この後に残される問題は山積みで、決して楽観視出来ない、と考えられた。勿論、事務所へも、このことは
直ぐに伝わるだろう。それを思うと気が重かった。
岩城に対しても、いい加減な説明では、納得させることは難しいだろう。
いったい、どう言えば、岩城を安心させることが出来るのか、香藤は電話を終えた今、頭に多くの難題を思い巡らせながら、先の、石垣との電話を思い出していた。
そして、その言葉のひとつひとつを思いながら、香藤は、瞬間、体に電気が走ったかのように、脳が炸裂した。
ー岩城君がそう言ったの?
そう石垣は訊いた。
香藤は、震える手で、自分の携帯電話のボタンを押し、岩城を呼び出した。
岩城の携帯は話中で、つながらなかった。
もう1度、かけた。やはり、話中だった。
「岩城君がそう言ったの?」、と、訊いた後、そうではないと香藤が答え、それに対して、あっけないほど素直に石垣は電話を切った。
石垣は、岩城に直接、談判する。岩城の意思を、自分から確かめる。
異常なまでの確信が、今の香藤を震えさせていた。
何度かけても、電話はつながらない、石垣がかけている可能性は大きかった。
何故、すぐ気がつかなかったんだ。執着したものから石垣が、そうあっさり引き下がるわけがない。
狙いを定めた獲物、それを、奴はどんな手を使ってでも、手に入れようとする。
携帯を片手に、何度もリダイアルをしている香藤に、外から「香藤さん、時間です!!」という、無情なスタッフの呼びかけが、聞こえた。
結局、電話は岩城につながらないまま、香藤は、控え室を出た。
息をするのも苦しいほど、通路を歩くその体すべてが動揺していた。







その日、香藤が帰宅できたのは、夜9時を回ってからだった。
はやる気持ちを抑えながら、居間の戸を開け、岩城を探した。
「おかえり」という岩城の声が、キッチンから聞こえてきた。
そこを覗くと、岩城がバスロープを羽織って、コップに入れた水を飲んでいた。
「風呂に入ったら、喉が渇いて」
そう、笑いながら口にする岩城は、確かに、今、風呂から出た風情だった。
「・・・岩城・・・さん」
そう言いよどむ香藤に、にこっと笑うと、「話がある」とひと言口にして、ソファーへ向かった。
ゆっくりとソファーへ座った岩城について、香藤も、ややコーナー寄りに岩城に向かって腰を下ろした。
「石垣さんから、電話をもらった」
岩城は静かに口にした。
香藤の表情が僅かに歪んだ。岩城の口から、石垣の名前が出ること、そのことが想像以上にショックだった。
そんな香藤の顔を見つめながら、岩城は言葉を続けた。
「明日、食事をすることになった」
瞬時に香藤の顔が驚愕と怒りを携えたものに変化し、と同時に、「どうしてっ!!どうしてそうなるんだよっ!!」と、叫んでいた。
「落ち着け、香藤」
「落ち着け?何言ってるんだよっ!!岩城さん!!何考えてるんだよっ!!それがどういうことなのかっ!!石垣が何を考えてるかっ!!判らないって言うの?」
「やっぱり、お前は、それで映画を断ったんだな」
「・・・・そうだよ・・当たり前だよっ!!そんなこと」
「どうして、俺に言わなかった」
「言えるわけないじゃんっ!!言えばこうなるって・・・現に岩城さん・・」
「ただの食事だ」
「ただの食事っ?石垣がそう言ったんだろっ!!ただの食事だって、それ以上の意味はないって!!俺にも言ったよ、同じ言葉をねっ!」
「じゃあ、いいじゃないか。ただ、食事をするだけ、それだけだ」
「判ってない!!岩城さん、全然判ってない!!」
そう叫んだ香藤の言葉は、強い苛立ちを含んだものだった。
そんな香藤をじっと見つめながら、岩城は話した。
「・・・お前が映画を断ると言い出したときから、何かおかしい、とは感じていた。俺は金子さんにも尋ねた、その本当の訳を。だけど、金子さんは何も言わなかった。判らない、と、そう言っていた。
お前が金子さんにも言えない訳を、俺は今日、知ったわけだ」
そこまで口にすると、少し岩城は、香藤の様子を伺っていた。
以前、香藤は、憮然とした表情で、しかし、岩城が話す言葉にとりあえず黙って耳を傾けていた。
岩城は言葉を続けた。
「・・・で、俺は思う。判ってないのは、お前のほうだ」
「なんで」
「相手はあくまでも、ただの食事、と言っている。本当はどうなのか、それさえまだ判らないものと、お前の大切な、本当に大切な仕事の有無を天秤にかけるな
んて、ナンセンスだ」
「岩城さん・・・本当に、ただの食事って、そう思ってるの?」
香藤の声は僅かに震えていた。
「今は、相手がそう言っている以上、そう考えればいい、と俺は思う。そうではない、という憶測と判らない可能性、ただそれだけのために、お前が将来を棒に振るなんて、俺は耐えられない」
「石垣は・・絶対にっ!!違うよ。ただの食事に・・岩城さんとただ食事をするだけに、俺の仕事を引き合いに出す必要なんて、ないだろっ!」
「そうかもしれない、しかし、それも、お前の憶測だ」
「じゃあ・・・もし、行って、そうじゃなかったら、どうするのさっ!」
「そんなこと・・・ホテルの部屋で会うわけじゃないんだ」
そう言った岩城を、上目使いに睨んだ香藤は、ひと言呟いた。
「・・・甘いよ・・・岩城さん・・」と。
岩城は、香藤が何を口にしたか、聞き取れず、えっ?という表情をした。
そんな岩城に、もう1度、甘いよ・・・、と、香藤は口にし、いきなり、岩城の右手を掴むと、強い力でその体を引き込み、その勢いでソファーから床へと、岩城を引きずり落とした。
掴んだ右手に、岩城のもう片方の手を一緒にして、香藤は岩城の頭上で押さえつけると、自分の体全体で岩城に乗り上げ、足を絡め固定した。
そしてひと言、真上から岩城を見下ろしながら言い捨てた。
「逃げてみてよ」
「・・・香藤・・・」
「そんなに言うんなら、ここから・・・俺の体から逃げてみてよっ!!」
香藤の本気の力で押さえつけられた体は、岩城がどんなにもがいても、その下から外れることはなかった。
体全体で抗う岩城をじっと見下ろしながら、「どうするのさ・・・こうやって、
石垣に力でこられたら・・・あいつは俺と同じくらい、あるよ、タッパも力も」
岩城は、抵抗を止め、下から香藤を見上げながら、「離せ・・・香藤」と、言った。
そんな岩城を、ある意味、冷酷な目線で、香藤は見つめていた。
そして、言った、「そうやって、石垣にも頼むと良いよ」、と。
「・・・ただ食事をするだけだ・・・部屋へいくわけじゃないっ!!」
「料亭の座敷なんて、個室も同じだよっ!!」
言い捨てて、香藤は、空いている右手を、岩城のガウンの乱れた合わせから差し込み、右の突起を揉んだ。
瞬間、胸が跳ね、僅かに岩城の体から力が消え失せた。
残酷な手つきで岩城の欲望が点在する箇所を、撫で摩った。
岩城は、止めろ、と、やや高揚した表情で、口にした。
そんな岩城に、香藤は言葉をかけた。
「もう抵抗しないんだね。それとも、出来ないの?」
「・・・・・・」
岩城は目を硬く閉じ、香藤から投げかけられる、苛立ちと嫉妬の色に染まった言葉を、聞いていた。
何故、香藤がこんなことをするのか、岩城には痛いほど判っていた。
石垣が岩城に電話で告げた言葉、「是非、香藤君に映画に出てもらいたい、しかし、彼は断ると言って来た。そのことについて、私は岩城くんと、相談したい、
と、そう思っているんだが、どうだろう」
という、それは、どうだろう、と訊きながら、ただ形だけの打診だった。
岩城の選択権は、非常に狭かった。
はなからこの誘いを断ることで、香藤が映画を降りることは勿論耐えられない、が、石垣の希望を受け入れるわけにもいかない。ならば、取り越し苦労であった、と、後からそう思うかもしれない、その可能性に賭けるしかなかった。
順番を考えれば、今はそれしか方法がない。ただ何もせずに、香藤が映画を撮ることが出来る、という、至極当たり前の流れはもうない。そうなった今、岩城は、
そうではない可能性に賭けている、それだけだった。
「岩城さんが・・・口にするのも嫌だけど、もし・・・もし、他の人間に抱かれ
るようなことがあったら・・・判ってるの?いったい俺達がどうなるかっ!!」
さらに先へと進む香藤の執拗な指先から、全ての神経を殺し逃げながら、岩城は、香藤の言葉を聞いていた。
判っている、そんなことは、嫌というほど判っている。しかし、それを言葉にするだけの言い訳が、今の岩城にはなかった。ただ、心の中で、絶対にそうはならない、と、自分に誓うだけだった。
何も言葉を返してこない岩城に苛立ちを募らせながら、香藤は次第に表情を崩し、その目が、力ないものへと光が失せていった。
押さえつけていた手を離すと、その手で岩城の体を強く抱きしめ、苦しい思いを吐き出した。
「そうじゃない、そうじゃないんだ・・・俺はっ・・・たとえ岩城さんが、もし、俺以外の人間とそうなってしまっても・・・判ってる・・・岩城さんが望んでそうしたわけじゃないって・・・だから・・・俺はきっと・・そんなことになっても、岩城さんを・・・岩城さんと別れるなんて、絶対に出来ない・・・俺のことじゃないんだっ!!俺が怖いのは・・・岩城さんなんだっ!!そうなったときに・・・岩城さんがどれだけ自分を責めるか・・・自分で自分を責めて苦しむか・・・・・俺が忘れられても、岩城さんは忘れない、忘れられない!!絶対に、俺に・・・俺と今までと同じようにセックスできない!!岩城さんは絶対、ずっと・・・ずっと、そのことを抱えて生きてくようになる・・
それが・・そのことが、俺は怖いんだよっ!!」
目を閉じて、香藤の言葉を聞いていた岩城の目じりから、一筋、涙が伝い落ちた。
自分がどれほど、深く愛されているか、そのことが、今ほど辛かったことはなかった。
香藤の叫びに真っ当な答えを与えてやることが出来ない。ただ自分が可能性に賭けている、などという、そんな曖昧な答えでは、香藤を不安から救うことは出来
ない。岩城の脳裏には、数日前、台本を片手に「これ、結構良いかも・・」と言いながら、嬉々とした表情を浮かべていた香藤がよぎっていた。あの香藤を守りたい・・・その一念だった。
じっと、目を閉じたままの岩城に「いやだっ!!絶対に嫌だっ!!」と、香藤は
子供のようにしがみつきながら叫んだ。叫びながら、岩城の唇を噛み、左手を耳からその黒髪へとせわしく差しいれ、荒い仕草でもう一方の手で岩城の尻を探り、強く掴んだ。
「んっ・・」と、呻きが漏れる岩城の口に食らいつくように、香藤は、唇を合せた。
荒い仕草、荒い愛撫、香藤は自分を止めることができなかった。
胸を覆う、とてつもないジレンマ。
互いが、今、大きな力に向かって、戦おうとしている、その先に勝利が見えないことが、香藤を怯えさせていた。
岩城の胸に頬を摺り寄せながら、香藤の頭はただひたすら混乱を呈していった。
「・・・岩城さん・・・俺・・・・判らない・・・・」
そんな香藤の髪に、岩城は両手を伸ばし差し入れた。
くぐもった声で香藤の口から苦しい陳情が流れ出ていった。
「俺が・・・石垣に宣戦布告をしてしまった・・・・・1度は手離す決心をした仕事だった・・・・俺だって、できればやりたい・・・でも、岩城さんを石垣に
会わせたくない!!仕事も渡せない、でも、岩城さんも絶対、渡せないんだよっ!!」
香藤にとって、岩城を何かと比べる、ということは、不可能だった。
その相手が何であれ、絶対に岩城を選ぶ、という、それは、香藤の、岩城を愛し始めたときからの、生涯かけての性、だった。
「・・・・だから・・」
ぽつんと、岩城が突然、言葉を発した。
香藤は、顔を上げた。
少しだけ、岩城の表情が、笑みを浮かべているようにも見えた。
「・・・だから、俺は、その、僅かな可能性でも、捨ててしまいたくない・・だから、会うんだ」
「・・・・・・違う・・・岩城さんは・・・違う・・・俺がそれを判んないって・・・」
「違わない」
「違うっ!!絶対に違う!!岩城さん、何かを・・・諦めてるっ・・・納得してるっ」
「諦めても、納得してもいない・・・」
「俺のためとかって、言わないでよっ!まさかそんなこと、また、勘違いしてるんじゃないよねっ」
岩城は、再び、目を閉じた。「また」と、香藤にいわれた言葉が、頭に弱くこだましていた。小さな声で、そんなこと・・・俺が間違えるわけないだろ・・・、と呟いた。
香藤は次第に、岩城が明日、石垣に会うということは、止めることが出来ない、と、そう感じ始めていた。
岩城は知ってしまった。香藤が仕事をするための提示された条件を。知ったからには、そのことに眼をつぶって見ぬ振りをする、それを岩城に求めても無理である、と。
もし、岩城を石垣に会わせず、自分が仕事も手離し、事務所ともうまくいかなくなったとき、そのときには、岩城は、自分が犯したミスから立ち直れないだろう。
それは誰が考えてもミスではない、しかし、岩城はそのことを、自分が犯した決断の誤りだと考えるだろう。
もしかして、本当に「ただの食事であったかもしれない」という、永遠に正解が示されない可能性、それを捨てた、という、そのことは、岩城の神経をボロボロにしてしまう。今、何ひとつ確かなことが見えない状況で、そのことだけが、香藤にははっきりと見えていた。
しかし、納得も出来なかった。
岩城が、自分を見ず、目を閉じなければ口に出来ない想いを、推し量れば、背筋が寒くなり、香藤は恐怖さえ感じた。
香藤は、強い力で紐を解くと、岩城の体からローブを剥ぎ取り、自分もジーンズのベルトを外し、性急な手つきで前を寛げた。
香藤がしようとしていることを耳で感じながら、岩城は目を閉じたまま、黙って、じっとしていた。
無抵抗になられれば、なられるほど、香藤の狂気は増した。
岩城の両足を肩へ持ち上げると、躊躇なく、香藤は自分自身を埋め込んでいった。
見下ろす岩城の眉が歪み、閉じた目が一層硬く結ばれ、喉からうめきが響いた。
しかし香藤は、ずり上がる岩城の肩を両手で押えながら、一層深く腰を進め、突き上げた。
深い引きずるような声と共に、岩城の顎が瞬時に反りあがった。
苦痛の見える、その表情を前にしても、なお、香藤は、自分を抑えることが出来なかった。
高まる攻撃的な意思、自虐的ともいえる岩城への想い、そして独占欲、その全てが、今、香藤を突き動かしていた。
そして岩城は、どれほど乱暴に愛されようと、その全てに強い香藤の、自分への愛を感じていた。
衝撃が次第に快感へと姿を変え、一層激しさを増していく香藤の動きに責められ
ながら、岩城は、どれほど自分がこの男を愛しているか、その想いは、号泣してしまいそうなほど胸の奥に迫ってきた。
香藤が体を折り、岩城のその顔へ熱い息を吐きながら、頬を擦り付けてきた。
その顔を両腕でかき抱きながら、岩城は夢中で口にしていた。
「愛してる・・・・・愛してる・・かとう・・・」と。
香藤は、その愛を告げる唇を覆い、言葉ごと貪った。
香藤はその日、どれだけ岩城を抱いても、自分のものだと、確信することが出来なかった。
いずれは立ち向かわなければならない道であったかもしれない、そんな見えぬ力
に向って2人で戦うという、それは、誰も助けてはくれない、険しい道だった。





朝、何処となくぎこちないムードで、互いに向かい合って朝食を口にした。
香藤は、何も言わずに、きちんと朝食を用意し、岩城も黙って、それを口にし、食べ終わると、いつものように、ごちそうさま、と言い、箸を置いた。
2人とも、喧嘩をしているわけでもなく、しかし、口は、その体と同じように重たく、思うように動かなかった。互いに一睡も出来ていない。
先に仕事へ出る岩城を、香藤は玄関で見送った。
その背中を見送る香藤の眼には、今朝まで思い悩んでいたひとつの決心が宿っていた。
岩城が出たことを確認すると、香藤は直ぐ金子に電話を入れた。
朝の9時過ぎだった。
「金子さん?」
「おはようございます。どうしましたか?今日は、11時ですよね、お迎えに上がるの」
「うん・・・で、一寸、それまでに用意してもらいたいものがあるんだけど・・」
「何でしょう?」
そこまで話すと、香藤は一旦言葉を切った。そして、思い切ったように金子に告げた。
「盗聴器・・・」
「えっ!?」
「周囲300mくらいまで電波が届く盗聴器・・・用意しておいて欲しいんだけど・・俺を迎えに来るまでに」
「・・・ちょ・・ちょっと待ってください。盗聴器って・・いったい何に使うん
ですか?」
「・・・言えない・・・ごめん」
「香藤さん!!それ、犯罪ですよっ!!判ってますか?」
「うん・・・判ってる・・・でも、どうしても要るんだ」
「駄目です!!そんなこと、もし大変なことにでもなったら、どうするんですか?」
「金子さん、お願い!!」
「駄目です!!こればかりはどんなに頼まれても、ご用意できません」
「・・・・金子さん・・・」
そう言うと香藤は、数秒考え、そして、口を切った。頼む人間は金子しかいなかった。面の割れている自分が探すわけにはいかない。
「・・・・・金子さん・・・岩城さんは・・・俺を・・・・何とか映画が撮れるように・・・・そのために・・・今夜、石垣と会って食事をする・・・・ただ、会って、食事をすれば道が開ける・・・っていう・・・僅かな・・・本当に僅か1%もない可能性を捨てきれずに・・・それを、俺は止めることが出来なかった・・・だから・・・」
電話の向こうで、金子が息を飲んでいる気配が伝わった。
「だから・・・せめて俺は、自分に出来ることをしたい・・・戦うなら2人で戦いたい・・・」
「・・・・事務所はまだ、オファーを断っていませんが・・・」
「・・・・直接、俺が断った・・・昨日」
「・・・・・・石垣さんが、岩城さんとお話になりたい、と、おっしゃられたんですね?」
「うん・・・そう」
「・・・・・・」
金子は全てが見えてきていた。
今まで何度訊いても、全く答えなかった香藤が、何故あれほど唐突に、オファーを断ると言ってきたのか、その全容が、今、始めて理解できた。
香藤が危惧している、ただの食事であるはずがない、という想い、それは、この世界においては当然のことと、金子も思った。そして、それを十分認知しながら、
石垣に会う岩城の想いと、それを見送る香藤の想い、そのどちらにも、金子は強い憐憫の念を感じた。
「・・・判りました」
「金子さん!!」
「11時までにご用意しておきます」
「ありがとう!!ほんと、ありがとう!!金子さん」
いったい何処で何の目的で使うか、訊かずとも判っていた。
大きな問題になることはない、と、あらゆる状況を考え、金子は判断した。






チャンスは、一箇所しか考えられなかった。
岩城が今日撮り予定のインタビュー番組、その時のDテレビ局での控え室、そこしかなかった。
香藤は、金子が用意してくれた盗聴器を持って、自分の仕事がスタートする時間ぎりぎりに、何とかその部屋へ入ることが出来た。
岩城が控え室を後にして、完全にスタジオへ入っている、その時間と、香藤がそこへ入れる時差は、およそ10分程度しかなかった。
事前に、今日は自分の車で動く、と決めていた香藤は、金子の迎えは断っていた。
テレビ局の廊下で、なるべく人の目にたたないように、キャップを目深にかぶり
、岩城の控え室へと入った。それでも、何人かにすれ違い、果たして自分が誰であるかを気づかれていたかどうかは、不明だった。
部屋へ入ると右手奥に、岩城が着替えたはずの、家を出たときに着ていたシングルのジャケットが、ハンガーに吊るしてあった。
それを手に、用意していた小さい送信機をポケットから出すと、左肩後ろ寄りの
衿裏に、瞬間接着剤で貼り付けた。暫く上からそれを押えたまま、香藤はじっとしていた。
僅かに、手にしているジャケットから、岩城の香りが漂い、胸が痛んだ。
「ごめん、岩城さん」と、胸で呟きながら、送信機がしっかりと着いて、それがどうやっても落ちることがない事を確認すると、衿を元に戻し、表から見てみた。
凹凸感はなく、全く判らない状態に、取り付けることが出来ていた。
それを元通りにハンガーに戻すと、もうひとつの、受信機のほうをポケットから出し、耳に近づけながら、ハンガーのジャケットを上から叩いてみた。ゴソッと
いう鈍い音が、受信機から響いてきた。
正常に作動していることを確認すると、香藤は、急ぎ部屋を後にし、自分の車で再び仕事場へと戻って行った。
背中にじっとりと汗をかいていた。




それから2時間ほどした、午後6時、香藤は仕事を終了すると、その足で、今夜、岩城が石垣と会うことになっている、先日と同じ料亭に、車を走らせた。
岩城と石垣の約束は、午後7時、だった。
店から200mほど離れたコインパークに車を駐車し、エンジンを切って、受信機のスイッチを入れた。そこからは、何も聞こえてこなかった。岩城は、まだ圏外にいる、と思われた。
僅かにシートを倒し、目を閉じると、先ほど、別れ際に金子が言った言葉が蘇った。
「香藤さん。香藤さんが、どれほど岩城さんを心配なさっているか、よく判っているつもりです。だから、こうやって、頼まれたものも、ご用意しました。
しかし、これだけは覚えておいてください。
岩城さんは、香藤さんが無茶をして、自分の役者生命に傷を残してしまうような行為、それを、決して望まれないと思います。だからこそ、石垣さんにお会いになる、という、その想いを無駄になさらないように、必ず、無理はしない、と、約束してください」
そのときの金子の表情を思い出し、香藤は小さな溜息をついた。
岩城の想いを、自分への想いを無駄にするつもりは、ない、しかし、それに感謝するだけ、で、済むはずもない。最大限の譲歩はした。
あと、自分が出来ることは、岩城の状況を的確に知り、走れば間に合う、その距離に自分が居る、それだけだった。
もしそうなったとき、果たしてその先がどうなるか、自分がどうなるか、そんなところまで思いを馳
せるには、昨日から今日にかけての短い時間では、到底足りるはずもなかった。
が、たとえ全てが上手く回らなくなっても、2人が、正しい気持ちと体を維持で
きてさえいれば、必ず道は開ける、そう信じるしかなかった。




突然、受信機の音声に騒音が飛び込んできた。
緊張のなかで、香藤は体を起こし、全神経をそこに集中させた。
暫くして、午後7時前、「ああ、ここで結構です」という、岩城の声が、雑音に混ざって聞こえてきた。店の前でタクシーを降りたと思われた。
ガサガサという、布の摺れる音に混じって、「いらっしゃいませ」という声、そして、それに続いて
「もう、いらして、お待ちになられています」という声が聞こえてきた。
パタパタという、スリッパが廊下を進む音が響き、その音が止むと、襖が引かれる音、そして、2度と耳にもしたくなかった声色が響いてきた。
「やあ、いらっしゃい」と。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
そう、岩城は口にしていた。






「ご無理をお願いして、申し訳なかったですね」
そう、石垣は笑顔で岩城に告げた。
岩城は、向かいに座り、「いえ、こちらこそ、香藤がいろいろご面倒をおかけして、申し訳ありません」と、頭を下げ、誠実な言葉を送った。
「ビールがいい?それともお酒かな?飲むんでしょ?」
そう訊きながら、石垣は、岩城の返事を待たずに、仲居に、酒と料理を運ぶように言った。
10畳余りの襖で仕切られた個室は、中庭が覗ける小窓が低く造られ、そこから、外の闇がほのかな灯篭で映し出されていた。
料理が一通り並べられ、仲居は襖を閉めて出て行った。出て行くときに、「御用があれば、お呼びください」と、心得た声色で言い残した。



酒を勧められながら、岩城は、箸を手に、ゆっくりと料理を口に運んだ。
余りアルコールを入れたくなかった。
「ここは、よく、利用させてもらうんだけど、前、香藤君と会ったときも、ここで食べたんだ」
そう言う石垣の態度は、以前香藤に見せたものと同様、柔かで、権力を微塵も感じさせないものだった。
「冬の蝉、観せてもらいました。良い映画だった、とても」
「ありがとうございます」
「本当に、2人ともよかった。泣けたなぁ」
石垣は、酒を口に運びながら、煙草いい?と、断り、口にくわえた。
重厚なライターで火をつけるのを見ながら、岩城は、本筋の話に、いつ、持っていくべきかを、考慮していた。部屋に入り、30分が経過していた。
そんな岩城を見て、石垣は少し笑いながら、「本題が、気になるかな?」と、言った。
「すみません・・・」
慌てて岩城は、頭を下げた。
「いや、いいんだよ、そのことで、お呼びたてしたんだから」
「・・・香藤が、直接、お断りの電話を」
「うん、そう。びっくりしてね。絶対、香藤くんに、と、思っていたから」
「大変・・失礼をしました。この映画に、と、お申し出頂いたときは、本人も、とても乗り気で、喜んでいました」
「そう・・・」
そう、と口にして黙る石垣に、次に何といえば良いのか、岩城は言葉に窮した。
そんな岩城に、石垣は、箸で魚をつつきながら、言葉を繋いだ。
「・・・じゃあ、何故、香藤君は、断ってきたのかな?」
「それは・・・」
それは、あなたが口にした条件、それが原因ではないのですか?と、岩城は胸で問いかけた。
「永く、一緒に居る岩城くんでも、その理由が、判らないの?」
「いえ・・・」
数秒、沈黙が続いた。
石垣は、押し黙ったまま、岩城の出方を見定めていた。
岩城は、口を開いた。
「いえ・・・それは、多分・・・石垣さんが・・・俺との食事を望まれたから、と、そう思います」
ついに、岩城は、本題を口にした。
僅かに表情を変えた石垣は、そう口にした岩城を、軽い笑みを浮かべながら見つめ、「そう、そのことだけどね」と、言った。
そして、石垣は少し間をおいて、こう言った。
「岩城くん。岩城くんは、どうなの?」
「・・・・何が・・・でしょうか?」
「今度の『大きな愛と小さな同情』、彼に主演で、という話」
「それは・・・勿論、できることならば是非、香藤で撮っていただきたい、と思っています。良い話ですし、役回りも申し分ない、と」
「思っているわけだ、岩城くんは」
「・・・・はい」
「今の彼にとっては、大きなチャンス、でもある」
「・・・はい」
「この話を断ることで生じるトラブルは、彼を再起不能にする、ということも、勿論、踏まえて、それを心配して、岩城くんは、ここに来てくれたんだね」
「・・・・・・・」
同意すべき点もあり、しかし、確認されても困る点もあった。曖昧なムードを持つ会話のゲームは、岩城を無口にしていた。
そんな岩城を前に、石垣は、自分のゲームを楽しんでいた。
「強烈なガードを張られてしまって、困ってるんだけど」
「・・・・何に・・でしょうか?」
「僕と、食事をすること」
「・・別に・・・お食事にお誘いいただく分には・・・一向に差し支えありません」
まだ、ただの食事、というその粋から出ない問いかけだった。
岩城は、テーブルの上にある手拭に手を伸ばした。膝の上で握り締めていた手が、じっとりと汗ばんでいた。
その答えに、ニヤッと笑った石垣は、そう、と、言い、おもむろに、岩城がテーブルの上に伸ばした右手を、上から強く、手を伸ばして押さえ、握りこんだ。
この瞬間、岩城が僅かにでも期待を捨てていなかった、ただの食事であるかもしれない、という祈りにも似た思いは、全て泡と消え去った。
向かいに近づいてきた石垣の顔を、冷たい感情と、胸に湧く動揺を隠す瞳で見上げる岩城に、「差し支えない、と言う、その君の言葉をそのまま受け取らせてもらうよ」と、柔かな、しかし決して予断を許さない声色で、石垣は告げた。
「石垣さん・・」
岩城は、微動だにせず、そう呼んだ。
心の中で、戦うべき相手をしっかりと確認し、脳を氷河のごとく、冷却していった。
絶対受け入れられないものを、ただ、はねつけるだけでは、事は失敗に終わる、ということを、岩城は知っていた。
再び石垣の目を見た。そして、言葉を繋いだ。
「石垣さん。俺は、今日、香藤の仕事、そのためだけに、ここへ来ました。香藤を、どうしても映画に出させたい、その思いは、何にも変えがたいほど、強く持っています」
石垣の手に、僅かに強い引きが入っていた。
しかし、岩城は、押えられている手を、強くテーブルに押し付け、耐えていた。
たとえ僅か1ミリでも、引き寄せられるわけにはいかなかった。
「香藤は、今日、ここへ来ることを、強く反対しました。それは・・・その理由は、石垣さんもお判りだと思います。俺は決して、そのことを了承して、ここへ来たわけではありません」
「香藤くんを、君はとても大切にしている、そうだよね」
「はい。そうです。それは、多分、自分の仕事以上、かもしれません」
「なら、迷いはないわけだ」
「いえ・・・俺が香藤を大切にしている、という、そのことは、逆に、香藤も俺を大切に思ってくれている、ということです。香藤を裏切れば、そんな形で手に入った仕事を、あいつは絶対に喜ばないでしょう。だから・・・」
「だから?」
「だから・・・石垣さんの要求に俺が応じなくても、香藤が仕事をすることが出来る、そのことだけを求めて、ここへ今日、来ました」
「凄いことを言うなあ・・・そんなことはない、と、判っていて、わざと言っているなら、時間の無駄じゃないかな?現に」
「いえ、そんなことはない、などと、思えば、ここには来ていません。そんなことはないと思って来る、それは俺が、石垣さんに抱かれてもいい、と思って来たことになります。俺はきちんと話せば、必ず石垣さんには判ってもらえる、それを信じたからこそ来たんです」
「話などしなくても、香藤くんは仕事が手に入るんだよ」
そう言い捨てると、石垣の右手が強い力で岩城の手を引いた。
岩城の手は、テーブルを滑り、ガチャガチャという音を立てて、そこらじゅうの陶器を倒した。
引かれた体は、そのままテーブルの上を、石垣の前まで強い力で引き寄せられた。岩城の顔は石垣の10cm近く程で、かろうじて止まった。



受信機から、食器のぶつかる濁音が聞こえた瞬間に、香藤の体は、車から降り、道を店に向けて走っていた。
やはり、無理だった。
岩城の思いは、石垣などの人種には通じるわけがなかった。
「石垣さん・・」と言う、岩城の声色が僅かに変化したそのときに、既に、香藤は、その場の状況の変化を感じ取っていた。
香藤の急いた体は、突然、耳にあてている受信機から聞こえた石垣の声に、立ち止まった。
「岩城くん、そんなことをして何になるというんだ、芝居じみたことはやめるんだな」
続いて岩城の声が飛び込んできた。
「いえ、本気です」
「手から、そんなものは捨てたまえ」
何を、いったい何を岩城は手にしている・・・
再び走り始めた香藤の頭は、混乱で炸裂していた。
そして、次に耳にした岩城の言葉に、香藤は心臓が凍りついた。
「こんなものでも、突けば、死ぬことはできるでしょう、もし、石垣さんがどうしても俺の体を、と言われるならば、俺は、命をかけて、それを避けるしかありません」
「馬鹿な・・・」
そう、馬鹿な!!と、香藤も石垣と同様に心で叫んでいた。
しかし有り得る、岩城なら、有り得る、と、香藤の脳が危険信号の点滅を始めていた。
そこへ、岩城の澄んだ声色が続いて響いてきた。
香藤は、何人もの人間とぶつかりながら、それを聞いていた。
「馬鹿な、と、思われるかもしれません、が、もしここで、俺が自分を守れなかったときには、そのまま、香藤のもとへ帰り、同じように生活することは難しくなるでしょう。石垣さんに抱かれても、俺がそんな事などなかったかのように振舞える、それ程の度胸と器用さがあれば、もっと、話は簡単
だったかもしれません。しかし、生憎、俺は自分をごまかしきれない、また、香藤も、絶対に気がつくでしょう。そこに俺は戻れない。俺が戻ることが出来るのは、石垣さんが香藤に仕事を与えてくれるか、与えられず2人でゼロ地点に戻るか、どちらかしかありません。たとえ立ち戻った先が、マイナスからの再スタートであろうと、あなたに抱かれた体であいつのもとに戻るよりは、まし、です」
判っていた、やはり、岩城は全てを判って、石垣に会う決断をしていた。
自分が、いったい何が1番耐えられないか、を、岩城は、ちゃんと理解していた。
でも違う!!岩城さん!!それは違うんだよっ!!言ったじゃないか、俺は忘れられるって!!どんな岩城さんだろうが、受け入れる覚悟はあるんだよっ!!どんなことになっても、岩城さんにいなくなられることより、辛いことはないんだよっ!!
体中で叫び声を上げながら、香藤は走っていた。
そして、まさに今、店の入り口に足を踏み入れようと、戸に手をかけた瞬間、石垣の「まいったな、仕方がない、諦めるよ」と言う声が、耳に響いてきた。
香藤は手と足を止め、耳に全神経を集中させた。
数秒、沈黙の続いた後、「そんな顔で見なくても、大丈夫だよ、君の望んだ、何もしなくても香藤くんが仕事を手に入れることが出来る、という、信じられない
状況を、与えてやろう、と、言ってるんだよ」と、石垣が告げ、僅かに布の摺れる音と、陶器の音がした。石垣が手を離し、岩城が体勢を戻した、と思えた。
香藤の体から、にわかに力が抜けていき、ドッと背中に汗が滲んだ。
深い溜息をつくと、香藤はそのまま、ゆっくりと来た方向へ体を返し、車へと歩いた。
岩城が「石垣さん・・・」と、弱い音色を口にしていた。
それを聞きながら、香藤は歩いた。
歩きながら胸に呟いていた。
「・・・賭けたんだね・・・・でも・・・岩城さん・・・危険すぎるよ・・・」
と、それは、岩城のむこうみずな暴挙に、苛立ちと、一種、恐れのようなものを感じながらであった。
香藤は、いつも感じていた。
あれほど石橋を叩いて渡る、そんな岩城が、一旦渡ることを決心をすると、香藤が予測して先回り出来ない思考に及ぶ。
それは、思考、ではなく、もはや行動に及んでいることが多い。香藤はいつもそれに追いつけない。
そのことが、怖かった。
しかし、岩城がそんな決心をするのは、殆どが、香藤自身のことに関わっているときだけ、という、それも、香藤を苦しめる要因のひとつだった。
それを責めることは出来ない。
なぜなら、裏返せば、すべて、自分にも当てはまると思えるからだった。
自分も、岩城の事に関して、尋常ではない行動をとったことなど、今まで数え切れないほどあった。
互いに判断を狂わせる、唯一の種だった。






「石垣さん・・・」と口にし、体勢を元に戻すと、岩城は、手にしていた、小さなぺティナイフをテーブルに置いた。
それは、出された料理の牡蠣を開けるためのものだった。
考えていたわけではない。
気がついたら、手に取っていた。
岩城の首筋には、赤い小さな傷が浮かんでいた。
「ありがとうございます」と、岩城は真剣な表情で、心から石垣に礼を述べた。
そんな岩城を見て、石垣は、ゆっくりと背もたれに体を預けると、口を開いた。
「本気です・・・か・・・・」
そう、ひと言呟くと、煙草を1本くわえ、火をつけた。そして、再び口を開いた。
「・・・いやね、香藤くんも、同じ事を口にしていた。君達2人は、まるで世間
知らずの若造のように、本気だ、本気だと、恥ずかしげもなく口にする・・・・全く・・・参るよ」
そう言って、ははは、と声を出して、小さく笑った。
そんな石垣の言葉を、岩城は黙って聞いていた。
話せば判る、と、心から願ったことが、形は違ったが、理解してもらえた、そのことに、岩城は心から安堵していた。そして、感謝もしていた。石垣ほどの人間が、1度提示した要求を、プライドをまげて取り下げてくれた、その勇気に、感謝した。岩城が手にしたナイフなど、少しの怪我を恐れなければ、取り除くことなど、容易だっただろう。石垣は、岩城の本気を理解してくれたのだと、そう思った。
「岩城くん」
改まった口調で、石垣が言った。
はい、と、返事をし、石垣に目を向けた。
「映画は、約束どおり、香藤くんで撮ってもらう。冬の蝉での彼を観て、彼がいい、と監督から提案され、迷うことなく承諾した。それは、本心だ。彼は・・・一見、そうではなさそうで、そうなんだな・・・」
「・・・??・・・」
「・・・名優・・」
「・・・石・・垣さん・・・」
「ちょっと、シリアスな表現になるけど、君の演技力は評価されやすい、が、彼は難しい、だからこそ、こういった映画に出るべきなんだよ」
にわかに岩城の顔が、柔かな表情に変化していった。
「でも、君と食事がしたい、と言った、その言葉も本心だ。僕は確かに君に深い興味を抱いていた。だから、香藤くんに頼んだ。僕が君に抱いていた邪心を、しっかり彼は見抜いていた・・・いや・・そう感じるように、僕が言葉を選んで口にした」
そこまで口にすると、石垣は、岩城を改めて見つめた。そして、続けた。
「簡単に勝てるゲームだった・・・・そんな相手に負けて、なんだか、いい気分だ。不思議と、微塵も悔しさを感じない・・・・負け惜しみじゃなくてね・・・」
言い終わり浮かべた石垣の笑顔は、どこか清々しさが漂う魅力的な笑顔だった。
「・・・石垣さんは、決して負けてはいない・・・と、俺は思います」
岩城は静かに口にした。
「いい映画と、香藤といういい役者を手に入れることが出来た。それに比べれば俺のことなど・・」
と言い、僅かに目をそらした。
そんな岩城を前に、石垣は声を出して笑った。
「岩城くん、君、全然判ってないね、自分の価値を」
「・・・・価値・・ですか・・役者に価値があるとすれば、それは、いい仕事に声をかけてもらえる・・・それだけだと思います。そういった意味での価値でしたら・・・・どうでしょう・・・自分でこの程度は、と判っているラインも・・・・あるかもしれませんが・・・・」
「面白いなぁ、そんな君だから、香藤くんもおちおち枕を高くして寝れないわけだ」
「・・・・?」
返事に詰まる岩城に、いや、いい、という仕草で石垣は片手を泳がせた。
「でもね・・・」
そう口にして、石垣は帰るために、腰を上げた。
「自分の価値を正しく把握する、それも、この世界に生き延びるためには、必要なことだよ。価値を知ることで、大きな力として使うことも出来る。それは決して、恥じることではない。正しく使う、それは、君にとっても、勿論、香藤くんにとっても、役者として大きな躍進を遂げるための、最大の武器、になることもある」
そう言い、続けて「今回は、ちょっと違ったけどね」と、笑って口にした。
そして、老婆心ながら、もうひと言、と前置きながら、石垣は最後にこう言って、岩城を残し、その場を去った。
「・・・今日、改めて君を前にして思った。君は、危ないよ。今後、気をつけたまえ。相手が僕のような人間ばかり、とは限らない」
それはそのまま、香藤の言葉でもあった。
岩城は石垣に黙って深く頭を下げた。




それでも、と思い、あの後、続いて様子を車の中で伺っていた香藤は、石垣が店を出たことを確認すると、岩城を待たずに、車を家へ走らせた。
岩城が帰宅する前には、帰っておきたかった。
岩城のほうは、石垣が部屋を出た後、ひとり、10分くらい、黙ってそこに座っていた。
石垣が残していった余韻は、岩城にも、自分が仕掛けた賭けが、いかに危うい橋であったかを、自覚させるに十分だった。
帰宅する前に、心を切替え、落ち着かせたかった。
そうやって岩城も香藤も、互いにそれぞれが、秘密めいた思いを抱えながら、帰宅の途についた。






「ただいま」

岩城の声が、玄関から響き、ドアを開けて迎えに出た香藤は、おかえり、と、笑顔で答えた。
居間へ2人で入りながら、本来なら、「食事、どうだった?」と、訊くべき、訊かれるはず、と、互いが頭に思い描いていた。
香藤は思い切って、「どうだった?食事」と、口にしてみた。
訊いてみたところで、全ては判っていることではあった、が、訊くのが自然だと思えた。
そんな香藤へ、ジャケットを脱いで椅子にかけながら、岩城は笑顔を香藤へ向けた。
「喜べ、ちゃんと映画、撮れることになったぞ」
そんな事を口にする岩城を、香藤は、見つめながら、「撮れるって・・・」と、その先をどう訊こうかと、考えた。
岩城は直ぐに、「やっぱり大丈夫だったよ。ちゃんと話せば、石垣さんは判ってくれた。お前が心配するようなことは何もなかった」と、穏やかに告げた。
岩城の口から語られる半分の嘘、それは痛々しいほどの愛情の裏返し、だった。
香藤は思い切り明るい笑顔を浮かべ、「そっかぁ!!俺の思い過ごしだったんだ!!」と声高に言い、よかった!!と、続けて口にした。
岩城はその香藤の笑顔を見つめながら、「本当によかった・・」と、小さく呟いた。
「ちょっと汗を流してくる」、と言って、その後、岩城はすぐにバスルームへ向かった。
その背中を、香藤は、うん、と言って、引き止めなかった。
早く、この場を離れたいだろう、そう思えた。
岩城の演技は上出来だった、が、やはり、本人も気づかずに、言葉と視線が僅かではあるが、不安定に泳いでいた。
岩城が居間を出た後、香藤は、岩城が残したジャケットの衿から、用心深く送信機を剥ぎ取った。
送信機を手に、ソファーに腰を下ろし、香藤はじっと考えていた。
互いの間にある嘘、それを、どう処理するか。
暫くして、一旦腰を挙げ、手にした送信機を、自分の鞄に入れるために、居間の出口まで歩いた。
ドアに手をかけ、数秒、考えて、再び体を返して、ソファーに座った。
そうやって、じっと岩城を待った。




それから10分もせずに、岩城が出てきた。
パジャマに身を包んだ岩城の喉もとに、赤い点になった痕が浮いていた。
それを瞬時に目にした香藤は、先ほど自分が下した決断を、改めて正しいと判断した。頭で想像していた場面は、実際、こうやって事実を確認させられると、
寒気がした。絶対に放置できない、と、そう思った。
岩城は、そのまま香藤が座っているソファーに、ゆっくり腰を下ろし、小さくひとつ溜息をついた。
「疲れた?」
そう訊いてくる香藤へ、「いや、別に、そんなんじゃない。いい食事だったよ」
と、やや自分の言動に注意を払いながら、口にした。
岩城は続けて「石垣さんは、とてもお前のことを役者として、気に入ってくれている。今度の映画も」
と、そこまで口にした岩城の体を、香藤は、後ろから手を回し抱くと、その言葉をさえぎった。
時間をとればとるほど、自分がとても卑怯な行動をとっているように香藤は感じた。もうこれ以上、岩城に苦しい嘘を口にさせたくなかった。
勿論、香藤自身も、このまま嘘を胸に締まっておく、という選択は、先ほど既に捨て去っていた。
片足をソファーに乗りあげ、岩城の背中に自分が重なり、互いの顔が完全に見えない体勢をとると、ゆっくり、送信機を握り締めていた右手を、背後から岩城の前に差し出した。そして、手を開いた。
瞬間、岩城は、差し出された手に乗っているものが、何か、判断が出来なかった。
「なんだ・・・?」と、言いながら、それを手に取ろうとした岩城に、香藤は告げた。
「送信機・・・」
「送信機・・・?」
出しかけた手を引っ込めると、岩城は後ろを振り返ろうとした。
そんな岩城の体を強く固定し、振り返る体を止めると、香藤は、「そう・・・送信機・・・盗聴器の」と言った。
岩城の息を呑む様が感じ取られた。
しかし、香藤は言葉を続けた。互いの間に不自然に存在する嘘を、今日のうちに払拭する、と、決心したからには、ここで止めるわけにはいかなかった。
「この送信機、今日、岩城さんのジャケットの衿についてた」
「ついてた・・・って・・・いったい誰が・・・」
「俺がつけた。今日、岩城さんがスタジオに入っている間に・・・」
「か・・・とう・・・」
「受信機は・・・俺が持ってる」
再び、強い力で振り向こうとした岩城を、香藤はそれ以上の力で阻止し、両手で強く抱きしめた。
「ごめん。今日、岩城さんが石垣と会っている間、俺は近くに居て・・・そして
、聞いていた」
「・・・・聞いてた・・?・・・全部・・・聞いてたのか・・?」
「・・・・一部始終・・・いったいどうやって、岩城さんが、俺の仕事を手に入れてきたかも・・・聞いてた。全部」
岩城の体中に、緊張が走っていた。その緊張と共に、返す言葉もなくしていた。
香藤は、そんな岩城の肩へ、自分の額を埋めると、言葉を続けた。
「ごめん、驚いたよね。こんなことして、いい訳ない。それにくわえて、俺はこのことを、岩城さんに黙ってよう、と、思ってた・・・・さっきまで・・・・でも・・・」
でも、と言って、少し間をおいた。
岩城に考える時間を与えたかった。
急な展開で、頭は混乱しているだろうと、思った。
「・・でも、俺は、どうしても、無視できない・・・・だから話すことにした、ちゃんと」
香藤が無視できない、と言っている、それが、いったい何を、なのか、岩城には判っていた。
出来れば知られたくないと、思っていたことだった。
重い口を、岩城は開くしかなかった。
「・・・香藤・・・・俺は・・・お前にどうしても・・・いや、そうじゃない・・・俺は・・」
岩城は、自分がとった行動全てを、香藤の映画のため、と、そう言いかけて、そんな言い方は、自己中心的過ぎる、と、悟った。それは、明らかに自分のためでもあったはず、と思った。
「俺は・・・・本当に期待していたんだ・・・・石垣さんに、きちんと会って話せば、道が開ける・・判ってもらえる、と・・・本当に考えて・・・だから俺は・・・考えていたわけじゃない・・・あれは・・・・あの時は・・・・」
苦しい言い訳を肩越しに聞いていた香藤は、そこまで聞くと、岩城の体を両手で引き、倒すと、そのまま体を入れ替え、上から重なりながら、再び強い力でその体を抱きしめた。抱きしめながら、「もういい」と、口にした。
そんな事を岩城に言わせるために、事実を明かしたわけではなかった。
ただ、岩城に、知っておいてほしかった。どれほど大切な命なのかを。
しかし、岩城は言葉を続けようとした。岩城にしてみれば、知られたからには言っておきたかった、そのときの状況を、気持ちを、そして香藤への想いを。
「もっとほかに・・・・手があったかもしれない、でも、あの時、あの瞬間・・・石垣さんの心の中にある・・・本意を知ったとき、俺は・・・・自分でも無意識に・・・・本当に無意識に・・・」
その唇を、香藤は塞いだ。言い訳も、戸惑いも、また、岩城自身が模索している答えも、全て、唇で塞いだ。強く深く舌を絡ませ、岩城の苦悩を吸い取った。
ゆっくりと、岩城の唇から離れると、香藤は、「愛してる」と、1番大切なことを、まず、伝えた。
見上げる岩城の瞳を、じっと見つめながら、ゆっくりと、言葉を落としていった。
「岩城さん、俺は、今日、死ぬほど、怖かった。そのときの感情は、言葉では言い表せない。岩城さんのとった行動、それは・・・それは、俺を想ってのことだ、と、そう考えることが出来ないほど、怖かった」
岩城の瞳に、瞬時に、苦痛の色が浮かんだ。
そんな岩城の髪を、優しくすきながら、香藤は続けた。
「知らなければ・・・もし俺が知らなければ、それでよかったのかな・・・?それで、岩城さんは、満足なのかな・・・?岩城さんが・・・生きて・・・」
そこまで口にした香藤の瞳に、不意に涙が溢れ、雫となり岩城の頬へ降り落ちた。
岩城の、香藤の背中に回った指が、強くその背を掴み、かとう、と、弱い、不安定な呼びかけが立ち上ってきた。岩城は、その心臓を、何かで鷲掴みにされているような、胸が潰れてしまいそうな程の悲痛な罪の呵責に見舞われていた。
香藤の体が、岩城に重なり、強く引き寄せ抱きしめた。
肩で、香藤の声がした。
「何があっても・・・どんなことがあっても・・・岩城さんが生きていてくれること、それが・・・・俺の命なんだよ・・・俺の・・・生きている理由なんだよ・・・どれほどの人が俺の、役者としての価値を認めてくれても、そこに岩城さんが居なければ・・・・何の意味もない・・・・嬉しくもない・・・岩城さんが・・自分の存在を賭ける・・・それは同時に、俺の存在も賭けてるんだよ・・・・・・それを・・・それを判っていて欲しい・・・絶対に、忘れないで欲しい・・・それだけ・・それだけだよ・・・俺が言いたいのは・・」
香藤の背にしがみつく岩城の肩が震えていた。
そんな岩城を、香藤はただ静かに、抱いていた。
自分も、どうしようもなく、涙があふれて仕方がなかった。
口にして確認した自分の想いは、言葉にしてしまうと、どれほどこの腕の中の存在が自分にとってかけがえのない宝であるかを、否応なく再確認させられ、それが、切ない思いで胸に迫ってきた。多分、岩城もそうだろう、と、香藤はその震える肩を抱き寄せながら思った。
そんな腕の中から、たどたどしくも苦しい訴えが漏れ聞こえてきた。
「かと・・う・・・俺は・・・俺は・・・判っているんだ・・・お前が・・・お前の想いを・・・なのに・・・いつも、間違える・・・間違えて・・・・お前を・・・苦しめ、悲しませる・・・どうして俺は・・・もっと器用に・・・そうすればお前も・・・・もっと・・・もっと・・・」もっと、お前も、穏やかな気持ちで俺を愛していくことが出来るだろうに・・・
と、そう岩城は言いたかった。
「いいんだよ・・・・岩城さんは・・不器用で・・・・」
そんな岩城さんだからこそ、俺は、好きになった、と、香藤は言いたかった、が、2人とも、言葉が上手く送り出せなかった。
2人、そうやって、ただ抱き合っていた。
静かな居間で、互いが昨日からのことを思い返していた。
少しして、香藤が言った。
「・・・何だろうね・・俺達・・・男が2人で泣いちゃって・・さ・・・」
くすっと小さく笑った香藤が、腕の中の岩城の額に軽いキスを落としながら、続けた。
「まっ・・・でも、いいか・・・。俺達、とてつもない大きな力に、2人で戦って、何とか勝利を手に入れたんだし・・・・ねっ」
大きな力、それは、巨大なパワーだった。
かろうじて勝利を手にすることが出来た、それには、香藤の強い意思、岩城の純な精神、運の強さ、それに加えて、石垣の人としての質、それら全てが要因となって得た勝利だった。
そしてそれは、たった2人きりでの戦いでもあった。




やや気分が落ち着き、香藤が、「コーヒーでも飲もうか?」と、言った。
岩城は「そうだな・・・」と、答えた。
そう言いながら、一向に離れようとしない香藤を岩城が見上げると、そこには、
幸せそうな目をした香藤がいた。
そして、香藤がひと言口にした。
「・・その前に・・入らせて・・・岩城さんの中に・・・」
岩城も同じ事を考えていた。





2005.12
比類 真




おねだりしてこのサイトにいただいちゃいました
比類さん、ありがとうございます!嬉しいです!
我が儘を聞いて貰いました
もう読み進めるごとに感情移入してしまって・・・
胸を鷲掴みされてしまう様な苦しさもありましたが
でも最終的にはふたりの愛の強さ・・・
互いが互いを思う気持ちが力を与えている・・・
その気持ちの素晴らしさを感じました
最後の香藤くんの言葉・・・重みがありますv

比類さん本当に素敵なお話をありがとうございました