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通り雨
今にも泣き出しそうな空の色。 それは、あなたの表情と、まるで、同じで。 だけど、いつかきっと―――。 その空に、光が射すと。 そして、あなたの心にも―――。
◆
西の方から、暗く重い色をした雲が押し寄せてきていた。見ている間に、太陽の光を遮ってゆく。 雨が降る。じきに、地面を冷たく濡らしていくだろう。 「都筑さん、急ぎましょう」 雨に濡れたぐらいで、風邪をひくわけでもない。これは、ただの口実だ。言い訳だ。 早く召喚を済ませるための。都筑に考える余裕を持たせたくはない。悲しんでいる暇を与えたくはない。だから、早く。早く終わらせたい。 「そんなせわしないこと言わなくても、大丈夫だよ」 「何、のんきなこと言ってるんですか!!」 イライラしてくる。いつも、こうだ。 都筑は、召喚の仕事を先延ばしにしたくて、こういうつまらないことを言って時間を稼ぐ。 しなければならないものは、ならないのだ。 命令を無視することは許されない。 巽より、何年も何年も長くこの仕事をしているくせに、まるでわかっていないような態度で。 毎回、酷く疲れる。 誰だって、巽だってこんなことはしたくない。仕事だと、これが死神たる所以だと、死神の使命なのだと言い訳を胸に抱いていなければできるはずがない。 だから、死神に徹しているのに。 「都筑さんっ!!」 巽は声を荒げる。都筑の背中がびくんと波打った。 怖がって、怯えて、隠れて……。びくびくしながら、また隠れて。 それを見つけられた子供のように、また、怯えて。 巽は、何度目かのため息を零す。 「都筑さ―――」 「わかってるよっ!!巽の言いたいことはわかってるよっ!!」 悲鳴にも似た都筑の声。巽は言いかけた言葉を呑み込んだ。 声にならなかった。 瞳から溢れそうな涙。なのに、きつく睨み返してきて。 悔しいのか、情けないと思っているのか。 どちらもだろうな…と、巽は思った。
ぽんぽんと背中を叩いて「行きましょう」と合図をする。都筑は涙をごしごしと拭きながら、こくりと頷いた。 だだをこねても仕方がないのだと。この宿命から逃れられはしないのだと。代わりに仕事をしてくれる人間もいないのだと。 よくわかっているのだ。わかっているのだ、都筑は。 だから、悔しいのか。情けないのか。涙が溢れるのか。
この仕事をしている限り、この涙は止まることがないのだろうか。いつまでも、降り続けるのだろうか。 雨は大地を潤すけれど、それは、いつまでも降り続くものでもない。太陽の日差しの合間に降るからこそ、恵みの雨なのだ。 彼の涙は彼の心を潤しはしない。 降り続ける涙は、彼の心を腐らせていくだけ。 一瞬の光さえも、届かない。 まして、巽の心など―――。 潤うはずがない。 同じように腐っていくだけ……。 なのかも、しれない。
召喚対象者は、二人が来るのを待っていた。 巽と都筑がやってくるのを、静かに待っていた。 そして、こう言ったのだ。 「探してくれて、ありがとう」と。 「あなたたちを、待っていたの」と。 はかない笑顔を向けられて、巽は思わず視線を逸らす。痛々しくて見ていられない。死に対する恐怖がないわけではないだろう。 こんな、幼い―――。 まだ、いくらも生きていない命。 これから、広い世界へと羽ばたこうとするはずだった――命。
だが、都筑は違った。 涙で濡れていたはずの瞳は、すっかり乾いていて、跡形もなく消えていた。 そして、そこには、一筋の光が。 それは、大きく広がって明るく照らす。 まるで、太陽のように―――。
ああ、ここに。ここにあったのだ。 こんなにも近くに、太陽はあった。 そして、輝いていたのだ。 止まない雨はない。 やがて、朝は来る。 そして、太陽は照らす。 都筑の心も、巽の心にも―――。 一瞬の、通り雨。 そのあとの、輝く太陽の光。
ここに、あった――。
◆
震えていた手は、躊躇っていた心は、いつしか優しい色に変わっていた。 都筑は、その魂を大切に大切に、壊れ物を扱うように手の中に収める。 そして、ゆっくりと穏やかに呪文を唱える。 まるで、魔法だった。 誰かが、何かに生まれ変わるような。そのための、魔法。 きっと、その魂は幸せだろう。こんなにも優しい、あたたかい死神に導かれて……。
雲の切れ間から、光が差し込んできた。 天使の階段――。 この魂も、この階段を上ろうとしている。よりいっそう高い場所へと、一歩一歩、その階段を上ろうとしている。
都筑は、手をかざした。 その光の階段に向かって、その魂を誘うかのように。そして、送り出す―――。 さようなら――と。
光と光が重なる。 魂が発する光が、天使の階段と重なる。高く高く、遠いところへとゆっくりと上っていく様子を、都筑はいつまでも見ていた。その光が、光に溶け込んで見えなくなるまで。 巽は、何もできなかった。何も言えなかった。 これが、都筑の姿なのだと。彼が、召喚を躊躇う理由も、嫌がる理由も。ただ、子供じみたワガママだと思っていた。 だが、こんな姿を見せられてしまえば、もう、彼を責めることもできなかった。 優しすぎる死神。 だが、彼に導かれた魂たちは、きっと次の世界でも幸せだろうと思う。 都筑が、自分を導いてくれていたなら、今頃、どうしていだだろうか……。
「行っちゃったね……」 ポツリと都筑が零した。 名残惜しそうに、雲の切れ間を見ながら。だが、それを振り切るかのように瞳を閉じて。 「行っちゃったね……」 寂しそうな笑顔を浮かべる都筑に、慰めの言葉もでなかった。都筑なりに、懸命に召喚をしたのだ。彼の気持ちは、どこへ行ってしまったのだろうか。また、その奥深くに閉じ込めたのだろうか。 さあ、帰りましょうとは、言えなかった。ただ、都筑の言葉を受けるかのように、同じ言葉しか言えなかった。 そして巽は、都筑を見るに絶えられなくなって視線を逸らす。自分のつま先を見た。何気なく、見た。 何を見たらいいのか、わからなかったからだ。 泣いているような気がして。声はしっかりしていたけれど、泣いているような気がして。だから、都筑を見ることができなかった。まぶたの裏に焼きついた泣き顔が、すぐに思い出された。それが、すぐ傍にあるような気がして、顔を上げることすらできなかった。
ぽつん、ぽつん…… 足元に、黒く丸い模様が落ちてきた。 「!!」 やはり、泣いているのか…と思った。しかし、それはどんどん数を増やし、そして、丸い模様がなくなっていく。一面を黒く染めていく。 雨が、降っていた。 今にも泣き出しそうだと思っていたのは、空のほうだったのだ。灰色をした雲が、一面に押し寄せてきていた。すっかりふたりは濡れてしまっていて。 巽はとっさに都筑の手を取って走り出した。どこか雨宿りできる場所へと急ぐ。 すでに濡れてしまって。だが、これ以上濡れないようにと懸命に巽は走るが、都筑の足取りは重い。巽の手を引く力に、走らされているだけだった。 「都筑さん、走ってください。このままだと」 都筑は、嫌だとは言わなかった。首を横にも振らなかった。だけど、このまま濡れていてもいいんだというあきらめだけは窺えた。
不意に、都筑が手を放す。そして、道の真ん中に立ち止まった。ぽつんと。 「何してるんですか!早く!!」 巽の声も届かない。届いていない。 都筑はただ、ぼんやりと灰色の空を仰ぎ見て、天からの恵みを全身で受け止めていた。ただ、ひたすらに。目を閉じて。 巽はいらいらしながら駆け寄った。だが、都筑は巽の様子に気がついているのかいないのか。そ知らぬ様子でまだ天を仰いでいて。 雨に濡れている。
子供みたいなことを。 雨に濡れてはしゃいでいるわけでもない。ただ、突っ立っているだけだ。 「都筑さんっ!!」 巽は言っても聞かない都筑の腕を掴んだ。今度は、優しいものではなかった。体ごと思い切り引っ張るようにして。
だが、それはかなわなかった。大きく抵抗された。 都筑は掴まれた腕を地面に叩きつけるかの勢いで振りほどく。 「都筑さん……」 従わせようとしたことに怒っているのかと思ったがそうではなかった。 ほおっておいてくれ――― そういうことなのだと、思った。
ゆっくりと都筑が顔を下ろしていく。雨にしっとりとした髪から雫が流れ落ちる。そしてそのまま、がっくりと……。 うなだれた。 「都筑さん……?」 雨の雫がただひたすら流れ落ちる。 頭から、髪から、頬を伝って……。伝って……。地面へと。
その時初めてわかった。 彼は―――。 彼は、泣いていたのだ。雨に紛らせて、静かに泣いていたのだ。 声を聞こうとしなかったのも、巽の手を振り解いたことも。 すべては泣き顔を見せないための―――。 都筑の思いやり。 巽に対する思いやり。ささやかな、思いやり。 「だから、来ないでって言ったのに」 都筑はぽつりと呟く。そう叫びながら、全身で拒否していたのにと。 「どうして傍に来ちゃうんだよ……。巽は……」 泣きながら苦笑しているような呟きに、胸が痛くなる。 泣き顔を見るのが辛くて、いつも条件反射のように視線を逸らす癖がついていた。それを都筑は悟っていたのだ。 巽が、気づいていなかった巽の癖。 だから、隠そうともしなかった。隠せなかった。知らなかったのだから。 バカだな……と、思う。
人一倍、他人のことを思いやる都筑。彼が、彼自身のことで悩んでいる人間のことに、気がつかないわけがない。 いったい彼の何を見てきたのだろうか…と思った。彼の心の中に降る雨は、小刻みに、時折晴れ間を見せながら、間隔を持って降っていたのだ。だが、その晴れ間を見せる回数が減っていく。間隔が短くなっていく。そんなことにも気がつかなかった。 あの時見せた太陽のような笑顔も、すぐに雨雲に覆われて。 今は、この有様だ。
「すみません」
巽は謝った。 泣かせたことではない。泣かせてしまったのではない。 都筑が都筑の精一杯で張った意地を台無しにしてしまったことに。 彼の思いやりに気づいてやれなかった。気がつかなかったことに。
「すみません」
ただ謝る言葉しかでてこないことが歯がゆい。 だが、ここで都筑を慰めることはできない。してはいけないことだともわかっていた。 涙をぬぐってやろうとは思わなかった。 この雨はいつか止む。西の空が少しずつ明るくなってきている。雨は小降りになってきていた。
だが、都筑の雨は止まない。これは長い通り雨だなと思う。 ならば、せめて。 この通り雨の間だけでも、泣かせておいてやりたい。見ているのも、黙って待っているのも辛いが。雨が降っている間だけは、今だけなら、泣いていてもいい。巽の目の前で。
うつむいたままの都筑の顔を、巽は両手で包み込む。 そして、ゆっくりと視界へ入れた。 雨で濡れているのか、涙で濡れているのか。どちらとも区別がつかない。 泣き顔なのか、ただ雨に濡れているだけなのか。 泣き顔から、いつも視線を逸らしていた巽は、そんな自分が嫌になった。少しだけ。 瞳を閉じたままの都筑は、祈りを捧げる聖母のようで。慈悲深い母のようで。 心から、祈りを捧げる―――。ひたすら、祈る。 その姿は、たとえようもなく美しくて―――。 青ざめた唇が、かすかに震えている気がした。 巽は引き寄せられるように。その祈りに。その慈悲深い、彼の表情に―――。
そして、唇を重ねる。 静かに、重なった―――。 音が、すべての音が消えた。 雨の音も――…。
雨は降っていた。 霧のような細かな雨は、だけど、冷たくはない。 母に抱かれるかのような優しいぬくもりに包まれているようで。 こうしていれば、泣いている顔を見なくてもいいのだ。こうしていれば、都筑の思いも、ぬくもりも、何もかもすべて自分の中に注ぎ込んでくる。 そう、巽は思った。
雨は、嫌なことを思い出させる。 寂しい思い出も、悲しい思い出も。 灰色をした空。冷たい雫。 誰かがどこかで、ひっそりと泣いているような気がしてならなかった。 これが、都筑の涙だと気がつくまでは―――。 悲しい思いを洗い流す、都筑の涙だと知るまでは―――。
祈りと共に捧げられたこの涙を、忘れないでいよう。
通り雨が過ぎていくまでは。 そして、光射すまでは―――。
Fin <2003.11.12>
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