| どんなに美しい花を見たって 綺麗と思わなくなった。 どんなに美味しい食事を食べたって 砂を噛むように感じて何も楽しくない。 そうあの時から あの瞬間 俺の世界は終わったのだ・・・・・・と思う。 あの綺麗な瞳を見ることはもう永遠に来ないだろう・・・・・・。 「なあ、坊・・・」 「・・・・なんですか」 机に寄りかかる亘理に少しだけ眉を寄せながらも密は本から顔を上げずに答えた。 昼休み、閑散とした課室には2人しかいなかった。 「・・・都筑・・・・どう?」 「どうって・・・見たまんまですよ」 そう言うと密は小さく息を吐いた。 都筑が様子がおかしくなったのは、もう1ヶ月以上前からだ思う。最初はいつもの仕事での落ち込みかと思っていたが、どうやらもっとプライベートな事らしいと気づいた。。 まず、ぼんやりすることが多くなった。 元々、都筑は普段からそんな風になることは多い方だったが、それはほとんどが眠いとか、お腹空いたとか・・・取るに足らない理由だった。 でも最近の都筑のぼんやりは、なんというか纏っている空気が違った。 もっと重い‥‥‥何か・・・・。 それが巽に関していることだと思いつつも、詳しいことは何一つ密には分からなかった。 本人に問い正しても、いつもいつものらりくらりとかわされた。 「俺にもよく分かりません・・・・あいつ何も言わないし・・・」 「そうやな・・・・ああなった都筑は何もI言わんやろうなあ」 亘理も都筑の様子が変な事には気づいてはいたが、それが深刻になればなるほど彼が堅く口を閉ざす傾向がある事ぐらい百も承知だ。 そうなった都筑から事の真相を聞き出すのは難しい事も。 「・・・・ま、原因はあいつなんやろうけどね」 そう言いがら閉まったままの課長室のドアを見た。密もその方向を見た。 中では巽が食事も取らずに仕事をし続けていた。 毎日繰り広げられていた巽と都筑のじゃれ合いと言ってもいいぐらいの小さな喧嘩も見られなくなっていた。 『本気・・・ですか』 かすれた声が今でも耳に残る。 『うん・・・・』 『何故・・・何故なんです』 『もうダメなんだ・・・巽のこと好きだけど・・・・それは愛とは違う・・・・違うんだ、そのことに気づいたから・・・』 『都筑さん!』 『お願いだから・・・・・巽・・・・・俺と別れて・・・・』 目を閉じると頭の中に繰り返される会話、もう何度目だろう。 忘れようと忘れようと思うたびに強く心に残る。 都筑はゆっくりと目を開けた。 木々の間から見える青い空に目を細める。 もう終わってしまったんだ‥‥‥‥何もかも・・・・・自分から切り出した別れなのに、こんなにも胸が苦しいなんて・・・・・ 幸せだった、優しかった巽。 まるで前の別れを補うようになにかと気を遣ってくれた。勿論職場では同僚という立場を崩さないけれど、いったんプライベートになれば、とことん都筑の思うとおりにしてくれた。 それが嬉しかった・・・・・。 昔・・・・もう何十年も前に告げられた言葉。それに傷つき、苦しんで、でもようやく2人の位置を作り上げて・・・・・そして再び共に歩き始めたというのに・・・・。 でもいつからだろう・・・・・・少しずつ、自分の中に積み重なっていく説明の付かない「澱み」。 無理をさせているのではないか、贖罪のための行為かも知れない・・・・・そう思い始めるともう止まらなかった。 そしてそれは日ごとに膨らんでいった・・・自分では押さえきれないほどに・・・・。 結局行き着くところは此処なのか・・・・そう思うと悲しかった。 今度こそやり直せると思った自分が悲しかった・・・・。 でも巽のためにはこれが一番いいと、これが一番正しいと・・・・・・・。 見上げた空がにじんで・・・・頬が濡れた。 「あなたに関係ないでしょう?」 まっすぐと視線を返してくる巽を亘理は見つめた。 「関係ないね・・・・・そんなことよう言えるな、今まで散々振り回しておきながら」 「あなた達が勝手にバタバタしていただけでしょう」 そう言うと、またペンを走らせる。 これについて深く語る気はないらしい、亘理はしばらくその姿を見つめて・・・・。 「・・・・・・なあ、お前、もしかして様子見してるん?」 「・・・・・・」 「巽・・・・・あかんって、何か思うことがあるなら、今それは伝えんと!」 「・・・・・今何を言っても無駄ですよ」 「おまえら、それで結構ややこしくなったこと今までだってあったやないか! 疑問に思う事があるなら、聞きたいことがあるのなら、ぐるぐるせんと相手に確認すれば」 「それが出来ればしています!」 煩い、と言わんばかりに巽が拳で机を叩いた。 「・・・・ああ、すみません。・・・・・・ダメなんですよ、今回は・・・・。何故か何度言っても聞こうとしない、自分ばかりを責めるんです。そして・・・・」 「別れることがお前のため・・・・ってか」 何でまた急に・・・・と亘理は頭に手をやる。 「・・・・・・」 巽にも分からない。急に、いや今にして思えば、徐々にだったのか・・・・。 夢見が悪いと、あまり眠れないと言い出した頃から、おかしくなっていった都筑の言動・・・でも何が原因なのか、巽はいくら考えても分からなかった。 「あいつも何考えて・・・・」 「1ヶ月前ぐらいから様子がおかしいとは思っていましたが・・・・・とにかく今は距離を置いた方がいいかと思って・・・・・あの人の思うとおりにしているんです」 ふうっと、溜息をつく。 「でもなあ・・・・・あんまり間をおかん方がええんやないんか?」 事態がややこしくなるだけだという気がする。 「それは分かっていますが・・・・」 下手に動くと傷口を広げそうだった・・・・出口の見えない迷路に入り込んだような感覚がそこにあった。 『もう・・・・・辛いのです』 『あなたの相手をするのに疲れたのです』 『だから・・・・私を自由にしてください』 『巽・・・・・・』 辛そうな悲しそうな顔をして去っていく巽の後ろ姿。 段々と小さくなるその背中を追いかけることが出来ずに、立ちつくした。 (そんなに苦しめていたの・・・・) 涙が止まらない・・・・・でも泣き声は出せないままにその場に立っていた。 闇の中・・・・巽の姿が完全に消え、そして・・・・・段々と闇は都筑本人の身体さえも・・・・ 心も何もかもなくなっていく感覚。 自分が自分であって自分でない感覚・・・・。 「このままじゃいけない」 何処かで叫びながらも、諦めへと向かう気持ち。 やがて・・・・闇は自分の全てを飲み込んで・・・・。 はっと、目を覚ました。 薄暗い部屋の中、古ぼけた天井が目に入る。 都筑は、はあはあと息を弾ませながら上半身を起こした。 もう何日目だろう、ずっと見る夢・・・・台詞こそ少しずつ違っても、必ず最後には巽が去っていくのは同じだった。辛そうに背を向けた巽はもう2度と都筑を振り返らなかった。 呼んでも泣いても振り返らなかった。 ・・・・・やがて夢の中でも都筑は呼び止めなくなった・・・・・それが巽の望みならば、我慢するのは自分だけでいいんだ・・・・そう思いながら背中を見送った。 起きあがり、コップに水を注ぐ。 それを一気に飲み干して、座り込んだ。 もう別れたのに・・・・辛くて辛くて泣き出しそうになりながらも別れたのに‥‥‥‥何でまだこんな夢を見続けるのだろう。どうして自分を苦しめるのだろう。 ・・・・・膝を抱える・・・・・もう嫌だ、こんな悲しい思いをし続けるなるなんて・・・・・・ 都筑は声を殺して泣いた・・・・・・窓の外ではまだ星が瞬いていた・・・・・。 カタカタとキーボードの音が響く課長室に亘理がやってきたのはそれから3日後のことだった。 「あなたも暇ですね。何度言われてもまだ・・・」 巽の言葉を遮るように亘理が口を開く。 「知ってるか?」 「何をです?」 「・・・・・お前に新しい恋人が出来たって噂。もう庁内この話で持ちっきりやで」 「・・・・そうですか」 「そうですか・・・って、なに落ち着いて・・・・」 「噂でしょう?」 「でもな」 「いちいち人に違うことを言って回れとでも?」 「そうやないけど、都筑の耳にだって」 「入っているでしょうね・・・・」 「巽!」 冷静に答える態度にいらつく。 「この期に及んでバタバタしても仕方ないでしょう。・・・・・それにあなたの言いたいことは分かっていますよ、火のないところに煙は立たないってことでしょう」 亘理は足を組み替える。 「・・・・・つきあっとるんか・・・・」 「いえ。・・・一昨日、夕食を一緒にしただけです」 「家でかい」 「バカな。外でですよ、以前手作りのモノを貰いましたからね、そのお礼です。それだけですよ」 「でも都筑とつき合っている時なら絶対行かんやろ、おまえ」 「・・・・・・今は距離を置くと言ったでしょう」 涼しい顔で答える巽を亘理は睨んだ。 この男がどれだけ都筑を思っているかは知っているつもりだった、でもそれは時々・・・・こういう時 、その思いは揺らいでしまう。 都筑も頑固だが、巽も自分の思いに囚われてしまう傾向を持つ。 そんな2人だからこそ目が離せなかったのだ。 思う以上に2人の間はこじれているのかも知れない。 「なあ、今のこの状態で、こんな噂を聞いて・・・・・大丈夫やないやろ・・・・あいつが」 こんな時都筑が一番言葉が欲しいのは誰でもない、巽の言葉だと思うから。 「・・・・・・・時間はありますから」 そう言って巽も辛そうに目を閉じる・・・・・。巽自身、どう接していいのかわからない状態だった。 確かにいつもなら、他の人、まして女性と食事など行かなかった・・・・そう思う。 何処かで自分を試しているのかもしれない・・・都筑以外の人を見ることが出来るのか、そうでないのか・・・・。 「・・・・・・」 亘理も黙り込む。 朝から姿の見えない都筑を密が探している。でも下手な慰めは益々事態を悪化させそうで・・・・亘理も何をどうしていいのか分からなかった。 一度登庁して、戻ってきた。 『経理の新人の子、巽さんと食事したらしいわよ!』 『え?! じゃあつき合ってるの?』 『そうらしいわよ、本人すごく自慢気に話していたもの。』 朝、召還課へと続く廊下で話されていたこと・・・・・彼女たちは近づいてくる都筑の姿を見た途端、はっと話をやめ、軽く挨拶をして足早に去っていった。 ・・・・巽はもてるから・・・・・自嘲気味に微笑んで、その場にしばらく佇んだ。 夢の通りに事が運んでいるようだ・・・・去られるのが怖くて、去って・・・・・結局自分は忘れられずに苦しんで。 でも巽は新しい道を歩き始めているんだ、確実に。 ・・・・女の子は苦手なんて、言っていたのにな・・・・ 今まで女性との浮いた話の1つもなかったのに・・・・・・・。 都筑は廊下を戻って行く。・・・・今は巽の顔を見たくなかった。 「庁内にいないとなると・・・・まさか、帰ってるのか」 朝、姿を見たという職員がいたから、登庁はしてきているはずと庁内くまなく探し回った密は息を弾ませながら壁に寄りかかった。 普段ならこんなこと気にしない。 でも今回は違うのだ、何か嫌な予感がする。 何?と言われても分からない、ただ早く探し出さなくては・・・・・。 そんな思いに急かされるように密は都筑のアパートへと向かった。 「もう・・・・・本当にダメになったんだなあ・・・・・」 テーブルの上の小さな鉢植えを見つめる。 数ヶ月前に、巽が買ってきてくれたものだった。 可愛いくて淡い青い花を沢山つけるそれが都筑は大好きだった。 自分から言い出した別れ。 無理をさせているかも・・・そしていつかそれに疲れた巽が離れてしまうかも・・・・それが怖かった。だからこそ自分から離れたのに・・・・・勝手なモノで、またいつか巽が振り返ってくれることを、手を差し伸べていることを待っていたのかも知れない。 「最低だね・・・・・俺」 笑った。 「ごめんね巽・・・・」 泣いた。 こんな俺で・・・・本当にごめん・・・・そう呟きながら泣き続けた・・・・・。 〈都筑・・・・・〉 どれくらいの時間が経ったのだろう、どこからか声が聞こえる。 「・・・・・誰?」 顔を上げると、そこはアパートの部屋ではなく、真っ暗な闇の世界が広がっていた。 低く心の奥底に流れ込んでくるような声が続く・・・・・この声の主は・・・・・ 〈・・・・・辛いか〉 「・・・・・辛い」 誘われるように答えた。もう何も考えたくない。 〈楽になりたいか〉 「・・・・・・・・はい」 なれるものなら・・・・・もう、疲れてしまった。 傍に巽のいない世界など、もういい。 何も聞きたくない・・・・・巽の新しい恋人のことなんて。 何も見たくない・・・・・2人が並んでいる所なんて。 何も感じたくないんだ・・・・・。 〈では・・・・・この手をとれ〉 すうっと、闇から手が伸ばされる。 都筑はその細く白い手を見つめた。この手を取れば楽になれる・・・・それは何故か分かっている。そう何かが告げている。 〈・・・・どうした? 楽になりたいのだろう・・・・おまえは〉 そう、もう何もいらない。一番欲しい大切なモノをもう無くしてしまったから。 〈さあ・・・・・都筑〉 都筑は手を伸ばす。 一瞬浮かんだ亘理や密の顏に動作が止まる。この手をとったら・・・・・ 〈アレのいない世界など意味が無かろう 私を受け入れるがいい・・・・都筑〉 都筑の迷いを見透かしたように声が響く。その言葉は都筑の背を押すのに充分だった。 1度目を閉じて・・・・・そして開けた。 ・・・・・そうだね・・・・・もう、俺には・・・・何もないから・・・・・ そう思うと、都筑は白く冷たい手にそっと・・・・そっと自分の手を重ねた。 瞬間、目の前が真っ暗になった。 ドンドンドン! 「都筑!」 古びたドアを叩いた。 「おい、都筑! いるんだろ! 開けろ!」 反応がない。 こうなったら・・・・・とドアを蹴破るために密は少し下がった。乱暴だが仕方がない。 その時、ドアが急に開いた。 「密?」 「あ・・・・・おまえ」 ひょっこり顔を出した都筑をつい見つめた。 「何してるの?」 「何って・・・・なかなか開かないから・・・」 「あー蹴破ろうとしたでしょう?」 だめだよお〜っと、けらけらと都筑が笑った。いつもの都筑がそこにいた。 「な・・・・・おまえ・・・・」 「何?」 「・・・・大丈夫なのか、その・・・」 「え?」 「お前一度来てから姿見えなくなるし・・・・それで、その」 「あ、そうかあ、ごめんね。心配させたんだ・・・・ありがと」 ふわっと微笑む。 「いや・・・・お前が平気ならそれでいいけど・・・」 ・・・・何だろう、何か・・・・ 「うん、もう大丈夫・・・・って言ったら嘘になるけど・・・・・でももう本当に大丈夫だよ、いっぱい落ち込んでいじけていたら、浮上しちゃった」 笑っている。 ・・・・・何なんだ、この変わり様は・・・・・密は思いも寄らない都筑を目の前に、言葉がなかった。 「ちょっと待っててね」 密にそう伝えてと都筑は上着を取りに奥へと入った。 「・・・・・・!」 一瞬、密は玄関先に足を踏み入れた時に何かを感じた。 それは次の瞬間には消えたものだったけど・・・・・背筋が凍るほどの鋭いもの・・・・。 辺りを見回す・・・・特に変わったものはなかった。 深呼吸をして、改めて意識を集中させる・・・・・でももう何も感じなかった。 此処の空気を満たしているのは、いつも都筑の部屋のものだった・・・・。 密は首を傾げた。 ・・・・・気のせいか・・・・ 放り投げていた上着を取る。 壁にかけてある鏡に顔が写った。 しばらく見つめて・・・・・都筑は笑った。 「お待たせ!」 パタパタと走って出てきた都筑の顔をやっぱり見つめてしまう。 「何?」 「いや・・・・・本当に大丈夫か?」 「大丈夫! 密もいるし・・・・な」 うん、と頷いて笑う。 「そうか・・・・ならいいけど」 密は何か腑に落ちないものを感じつつも、目の前の明るい笑顔につられた。 そこにいるのは確かに都筑だったから。 「さ、行こうか」 密の背中を押して都筑はドアを閉めた。 閉める間際に見えた物に小さく呟く。 「捨てないとね」 そして・・・・ドアは閉められた。 誰もいなくなった都筑の部屋。 開け放した窓から風が入り、小さな枯れ葉を舞上げた。 テーブルの上には葉も花も茶色に変色した鉢植えがあった。 |
2003・7・16
M・Hinase