| 【3.動き出した時計】 「じゃあな!」 片手を挙げて走っていく彼の姿が見えなくまで手を振る。 本当は・・・・ 出来ることなら、あのままずっと話をしていたかった。 彼の声や彼の瞳が何故か自分を和ませてくれる・・・・。 会ったばかりだというのに。 いつまでも見つめていたい、そう思った。 降り続けた手をゆっくりと下ろし、小さく溜息をついた。 庭を見渡す。 一面の百合の花。 白い色ばかりが植えられたこの庭で一日の大半を過ごしている身にとって、この香りには慣れてしまっていたが、他の者にとってはそうではないのだろう。 現にその香りに導かれて桃矢はやってきた。 毎日見慣れたこの花々に今日ばかりは感謝したい気持ちでいっぱいだ。 おかげで素敵な時間を過ごすことが出来た。 「ありがとう・・・」 小さく呟く。 今までも何人かがこの庭にひきよせられ、そして百合を見ていた。そういう人を見つけるたびに、側に駆け寄ったが誰も自分に気づいてくれなかった。 まるでそこにいないかのように・・・・。その瞳に誰も自分を映すことはなかった。 だから・・・だから・・・ あの人が入ってきた時も諦めて、側に寄らず静かに佇んでいた・・・・それなのに彼は、何の迷いもなく真っ直ぐに自分を見つめてくれて・・・・。 それが分かった時の嬉しさは表現に出来ない。 きっと彼も戸惑ったに違いない、変なことをいう奴だと・・・。 でも本当に嬉しかったから。 自分ではない他の誰かが、自分を見てくれる! それが何よりも嬉しかった。 テーブルの上のカップを片づける。 少しだけ傾いた陽が自分の影を真っ白いテーブルクロスの上に映した。 ぼんやりとそれを見つめる。 ・・・・どうしたんだろう、僕・・・・ なんか少し身体が熱っぽいような気がする。 昨日まで感じたことのない不思議な感覚・・・・身体の隅々まで熱を感じる。 さっきまで平気だったのに・・・・・ 思い返せば桃矢と出会ってからずっとそうだった気もする。でも嬉しさのあまり気にもとめてなかった。 今、一人になって初めてそれを感じ始めたようだ。 「さ、片づけてしまおう。」 自分を元気づけるように言いながら、もう一度だけ庭に目をやる。 白い百合が陽に染まっていた。 トレーをキッチンに運ぶ。 そして引き続きお茶の準備を始める。 それはいつものこと・・・・夕方のこの時間に美味しいお茶を淹れる・・・・それは もう何年も繰り返してきた行為。 これ以外でお茶の用意をしたことなんて、桃矢のが初めてかも知れないな・・・そう思いながら、さっきまでのことを思い浮かべる。 けして口数の多い方ではない・・・・でも短い時間で今まで聞いたこともない多くのことを聞いたような気がする。学校のこと・・・・クラブのこと。それらは耳にした単語ではあったが経験のない自分にとって、その一つ一つが興味深くて、笑ったり感心したり・・・。 こうやって思い出しても微笑んでしまう。本当に新鮮な時間だった。 同じ年くらいの自分がどうして、そういう経験がないのか・・・・なんて今まで疑問すら持たなかった。 ここの生活は穏やかで、とても気に入っていたから。 毎日やることは花の手入れとあの方へのお茶の用意。他の誰とも接さない閉ざされた空間だけれども、それを変に思うことはなかった。 この広い屋敷にどうしてふたりだけなのかとかも考えなかった。 門の外はどうなっているのかとか・・・不思議なことに思ったことがなかった。 ・・・でも・・・・ 目を瞑る。 今日感じてしまった。 『桃矢のいる世界』と『自分のいる世界』の違い。 何故、自分は今まで何も思わなかったのか、考えなかったのか。 話に出た学校やクラスのことも、もっともっと知りたい。 説明の出来ない思いが身体を熱くするようだ。 夕陽で色づいたカップを前に佇む。 何かが動き出したような・・・・・そんな感覚が自分を包み込む。 両手で自分を抱きしめた。 コンコン。 軽くノックをし、ドアを開ける。 そう広くはない書斎の隅に大きな椅子が置いてある。 窓際に置かれたその椅子にいつもの姿を見つけ、ゆっくりとドアを閉めた。 今日はランプをつけずに、出たばかりの月の光で本を読んでいるようだ。 そこへ静かに近づく。 「お茶が入りました。」 その言葉に顔を上げたその人は微笑む。 「ありがとう。」 開いていた本を閉じ、窓辺に置くとそっと手に平を頬にあててきた。 「・・・・・会えたんですね、あなたを見ることの出来る人と。」 そう言って、うっすらと赤みのさした頬を撫でる。 「はい。」 「そうですか・・・・・少し熱が出ているようですね。今日は楽しかったですか?」 「ええ、とても。」 「それは良かった。明日も会えそうですか?」 「・・・・・はい、たぶん。」 そう約束してくれた・・・・。 「そうですか。」 ゆっくりと頷いて、カップを受け取る。 「あの・・・・・」 聞いて良いのか分からない・・・・でも自分では分からないこと。 話をしてみよう、自分が感じたことを。 ふと、その人は顔を上げる。 「分かっていますよ。」 大丈夫・・・、そう言うとにっこり笑って、僕の目の前まで手を挙げる。 ・・・・・・僕が覚えているのはそこまでだった。 崩れ落ちる身体を支え、そっと抱き寄せた。 いつもより熱い身体。 「今日は少し無理をしましたね。」 頬にかかる髪をかき上げる。以前よりも短くなってしまった髪。 眠る優しげな風貌を愛おしく見つめる。 「時が来ました・・・・・」 いつか来ることがわかっていた・・・・・・。 「ユエ。」 小さく囁く。 答えるはずもない身体を、包み込む。 月の光だけがふたりを見つめていた。 |