Lesson


その日、岩城は午前5時半すぎに目覚めた。
しばらく香藤の腕の中でぼんやりしていたが、5分もしないうちに起き出した。岩城はそっとベッドを抜け出して動きやすい服装に着替えると、洗顔をすませて庭へ出た。

すがすがしい夏の朝である。
すでに太陽は昇っているが、まだ気温は上がっていない。
「庭仕事にはもってこいの朝だな」
岩城は気持ちよさそうに伸びをすると、早速作業にとりかかった。




そもそも今日の午前中は、売れっ子役者の岩城にしては珍しくオフなのだ。
こんな好機を香藤が逃すはずはなく、案の定昨夜香藤は、帰宅するなり岩城をベッドに引きずり込もうとした。
いつもの岩城ならなんとなく流されて結局一晩中香藤の相手をする羽目になるのだが、昨日の岩城は違った。
「してもいいけど、1回だけ」
とやけに具体的な数字を出して香藤を牽制したのだ。
もちろんそれだけであの香藤が納得するはずもない。岩城もその辺は心得たもので、不満を隠そうともしない香藤に向かい、理由をとうとうと説明し始めた。

まず翌朝、香藤には早朝から仕事が入っていることを指摘する。
むろんこれだけで香藤を抑えられるのなら、岩城だって苦労はない。
次にひさびさのオフにできるだけ家事をやっつけておきたいことを告げた。これには少し香藤もたじろいだようだが、ただでは起きない。
「そんなの…、今度の休みに俺がやっとくからさ」
「この間もその前も、俺にそう言っておいて、結局お前は洗濯一つしなかったじゃないか」
岩城の声が冷ややかになる。事実だけに香藤も口をつぐんだ。
たたみかけるように岩城が続ける。
「仮にオフがとれて、お前がたまりにたまった洗濯をして、布団を干して、リビングの片付けをして、トイレ掃除に風呂掃除までこなしたとしても、だ!お前に庭仕事までできるのか?」
明らかに香藤の旗色が悪くなってきた。
庭仕事だけは、都会で生まれ育った香藤にとって全くの管轄外だからだ。
「でもぉ…」
ちろりと上目遣いに岩城を伺う。
すると以外にも岩城はにっこりと微笑み、次の瞬間、最後の爆弾を落とした。
「お前、何か忘れてやしないか?あさっての土曜日、うちの親父と兄貴達がこの家に来ることになってただろうが」
そうなのだ。岩城がここまで家事をやっつけておくことにこだわるのは、何も家事がたまっていたからだけではない。父と兄夫婦の訪問を目前にして、家の内外をできるだけ整えておきたい、という思いがあったからだ。その上、その土曜日までにオフがとれたのは岩城だけで、それも今日の午前中をおいて他にはなかった。
「……わかった」
これでもかというほど目尻を下げて、香藤がぼそっとつぶやいた。
岩城の理論武装の前に、香藤が敗北したのであった。




ちょっと酷なことをしたかな、と岩城も思ってはいたが、ひさびさに爽快な朝を迎えられて大変満足していた。
その上気温もまだそれほど上がっていないとあっては、たとえ暑さに弱い岩城であっても、庭仕事に精が出るというものだ。

岩城は玄関ポーチを箒でさっと掃除した後、庭全体に水遣りをし、土がやわらかくなったところで、プランターの隅や芝生に繁茂しつつある雑草を抜いた。
幼い頃から家人や庭師達が庭を手入れするのを見てきたので、岩城の作業には、無駄がない。

おおかた雑草を抜き終え岩城が、プランターの中で今を盛りと咲き誇る花の、花がらを摘み始めたときだった。

カシャッ。

静けさ漂う早朝の庭に、突如としてカメラのシャッター音が響いた。

「…香藤」
「おはよう、岩城さん」
驚いて手元から顔を上げた岩城が見たものは、リビングの窓を開け放し、パジャマ姿で携帯をかまえ、にっこりと微笑む香藤の姿だった。
「―――お、起きてたのか。声くらいかけろ」
岩城はにわかに狼狽し始めた。自分の姿を盗み見られていたようで、気持ち悪いのだ。
「ん、だってさー、声かけちゃうと自然な表情が撮れないじゃん」
香藤には悪びれた様子もない。
「自然な、ってお前…」
それが一番問題なのだ。自分の自然な表情は、よほどのことをしない限り、自分では知りようのないものだからだ。
「あー昨日セーブしてよかった。じゃなきゃこんな岩城さん撮れなかったよ。朝日の中で、花と戯れる岩城さんなんて」
んふふふふ、と含み笑いを漏らす香藤は至極ご満悦のようだ。
岩城はもはや、不意打ちで写真を撮られたことに対する怒りも忘れ、ただあきれるしかなかった。
実をいうと、昨夜強制的に一回で終わらせたので、もしかするとそのことを香藤が根に持っているかもしれないと岩城は危惧していたのだ。
しかしそんな岩城の危惧も、香藤のポジティブ・シンキングの前には雲散霧消してしまった。

岩城はため息を一つつくと、再び視線を手元に戻して花がら摘みを始めた。

「あ、ちょっと岩城さん〜」
「何だ」

「ね、もう一枚撮らせて?」
それは一応「お願い」の形をとっていたが、香藤は露ほども岩城が断るなどとは考えていない。
「いいよね」と言外に告げる瞳は、おねだりという名の脅迫と言ってもいい。
「―――お前、金子さんが7時には迎えに来るんだろう?さっさと準備したらどうだ」
もっともなことを言っているように聞こえるが、抵抗にはなっていない。
「まだ、6時すぎだから大丈夫だって。だから…ね?」
現在時刻など、実際には二人にとってあまり重要なことではなかった。岩城が承諾の印にうなずくのが、早いか遅いかの違いがあるだけだ。
「もう一枚だけだからな」
岩城は小さくうなずくとそう言った。




結局、一枚で終わるはずなどなかった。
そして一体何度目の時か―――。
「岩城さ〜ん、視線もっとこっち」
すっかり岩城専属カメラマンと化した香藤に対し、岩城の眉間にははっきりと立て皺が刻まれている。
「んも〜、仏頂面しないで。可愛い顔が台無しだよ?せっかく花に囲まれてるのに」
「香藤」
ちらりとリビングの時計に目を走らせて、岩城が言う。
「これで最後だぞ」

「わかってる」
さすがに香藤も時間が押してきているのを意識しないわけにはいかなかった。

カシャッ。

「ありがと、岩城さん」
「あぁ」
岩城は生返事をかえすとすぐに、中断していた作業を再開した。

「えーっ!?なんで〜?」
直後、リビングの窓際に仁王立ちになった香藤から、抗議の声が発せられた。岩城は思わずどうしたんだ、と声をかけようとしたが、下手に声をかけるとまた作業が中断しかねないと判断し、やめた。
その代わり、別の所から合いの手が入った。

香藤がコンロにかけておいたケトルが、けたたましく鳴ったのである。
「げっ、俺、お湯沸かしてたんだっけ」
香藤は窓際に携帯を放り出すと、キッチンへと走っていった。

岩城は香藤の足音が遠ざかっていくのを確かめ、さっと窓際に寄った。
そっと、放り出されたままの香藤の携帯を手にする。
一体何が「えーっ!?」なのか、岩城とて知りたくはあるのだ。

そして画面を見た岩城は、文字通り目を剥いた。
「この画像を保存するには、データフォルダの容量が足りません。不要なファイルを削除してください」
これはつまり、フォルダがファイルで一杯だということである。
香藤は一体何をそんなに携帯に保存しているのか?
岩城の中で疑問が渦を巻いた。

「岩城さ〜ん、コーヒーいれるけど、いる?」
はっとして岩城は、香藤の携帯をもとあった位置に戻した。
「いや、いい。それよりもお前、急いだ方がいいんじゃないか」
岩城はキッチンに向かって、ややぶっきらぼうにそう叫んだ。

その後カップを片手に戻ってきた香藤が、「まぁ、いいけど〜」と言いながら携帯をいじっていたが、それは岩城の耳には入らなかった。




結局その日、岩城は一日中悶々として過ごした。香藤の携帯の中身が気にかかって仕方なかったのである。
岩城の携帯にも、もちろんいろいろなファイルが保存されているが、容量としてはデータフォルダの5割にも満たない。
岩城自身がめったに携帯で写真を撮らず、保存されているデータといえばほぼ香藤からの画像のみ、という状態を勘定に入れても、やはりデータフォルダを満杯にするというのは、生半可なことではできないという気がするのだ。そう考えると、いよいよ香藤の携帯の中身が気になってくる。

その日岩城が午後からの仕事を終えて帰宅したときにはもう、午前0時をまわっていた。
香藤がすでに休んでいる可能性も考え、岩城はドアの開閉音に注意しながら静かに自宅の中に入った。
しかし嬉しい誤算と言うべきか、岩城の気遣いは取り越し苦労に終わった。香藤が湯をつかっているらしく、浴室の方から水音が聞こえてきたからである。

そして香藤の携帯はというと、ジャケットともにリビングのソファの上に無造作に投げ出されていた。
香藤がいつ風呂から上がってくるともわからないが、とりあえず好機であった。
岩城は逡巡した。
たとえ夫婦とはいえ、相手の携帯を本人の許可無くのぞいてもかまわない、ということはないだろう。
この場合、香藤の承諾を得るのがまず先ではある。
しかし頼んだからといって香藤がすんなりと携帯を見せてくれるかというと、その可能性は低いと岩城は思う。
それならば、気づかれないうちにそっと見て、あとは見なかった振りをするのがいいのかもしれない。
なにも岩城は香藤の素行調査をしようというのではない。はっきりいってどうすればそんなにデータをため込めるのかという、純粋な好奇心によるものである。

岩城は意を決すると、香藤の携帯を手に取った。
自分のものとは多少違うので、キーの位置にとまどうが、なんとかデータフォルダを開くことができた。
画像のタイトル名がずらりと並ぶ。

「三谷先生」
「誕生日の岩城さんv(32歳)」
「俺のロデオドライブ計画!」
「後家さんな岩城さん」
「秋月さん@」
「秋月さんA」

岩城は黙って画面をスクロールさせた。驚いたことに、300を軽く越えるそれらのファイルは、ほとんどが岩城を被写体とする写真であった。ご丁寧に配信ものまで網羅しているらしい。
そして
「着替え中〜俺以外は絶対のぞいちゃダメ!」
「風呂上がりの岩城さん」
「酔っぱらいの岩城さん」
「岩城さんの腰つき(ヤバすぎ)」
「岩城さんの寝顔@」
「岩城さんの寝顔A」

岩城は香藤の携帯を握りしめたまま、しばし呆然とした。とてもそれぞれの写真を表示させる気にはなれない。しかも、いつ撮られたのか覚えがないものが多すぎる。

しかしながら、予想を遙かに上回る事態に岩城の脳が麻痺しかかったまさにその時、一つのタイトルが岩城の目に留まった。
「( 人 )ヽ(m^* )」
顔文字だけのタイトルである。見慣れない顔文字に、岩城は首を傾げた。
右側は人の顔で、おそらく真ん中の点は人の手だろうとわかるのだが、左側の部分がなんなのか、よくわからないのである。

岩城は表示ボタンを押した。

表示されたのは、むきたての桃のように白くなめらかな、人の臀部であった。
きっと触れればふるりと震え、吸い付くような感触が味わえるに違いない。
体を横にして、全裸でベッドに横たわっている人間の尻を撮ったものだとわかる。

ベッドカバーや、その他かろうじて写りこんだ調度品のたぐいから、そこがこの家の寝室であり、被写体が岩城その人であるのは明白だった。



「あ、岩城さん。帰ってたんだね、お帰り〜」
ほのかにボディソープのにおいを漂わせながら、パジャマを着た香藤がリビングに入ってきた。
岩城は答えないどころか、香藤に背を向けたまま振り向きもしない。
「岩城さん、どうし…」
背を向けたままの岩城を不審に思い、香藤は岩城の正面に回りこんで声をかけようとし、失敗した。
岩城が手にしているもの―――正確にはその画面に表示されている写真に気づいたからである。
「香藤、これはなんだ」
低く、押し殺すような岩城の声だった。視線を香藤の携帯に落としたまま、全く動かない。
明らかに怒っている。自分が勝手に香藤の携帯をのぞき見したことを棚に上げているが、この場合岩城に怒るな、という方が無理であろう。
勝手に尻を撮られたのだ。
「こ、これはね」
香藤は必死で岩城の顔を下からのぞきこむ。
1日の汗を流したばかりの香藤の背中に、今度は冷や汗がつぅっと流れていった。
「なんだ、言い訳があるなら聞いてやる」
そこで岩城は初めて顔を上げた。切れ長の瞳から放たれた、鋭い視線が香藤を貫く。
緊縛ものの帝王、岩城京介の再来である。
「………」
「俺がいつ、こんな写真を撮っていいと許可した?」
ふるふると香藤は小さく首を横に振った。許可を取らないからこそ、あんな写真が撮れるのである。
うなだれた香藤はぼそぼそと言った。
「…だって、あんまり岩城さんのお尻が美味しそうだったから、つい」
「つい、か」
つい、にしては数が多すぎる。
「あのな、香藤。俺は何もお前に対して肖像権がどうのこうの言う気は全くない。お前が悪用するとも思えない。ただ誰だって、勝手に写真に撮られていい気はしないだろう?気持ちの問題なんだ」
岩城の口調が、子供にこんこんとさとすように変わった。
今度は香藤は首を縦に大きく振った。
「わかったなら―――」
香藤はお許しが出るのを待つ犬のように、姿勢を正した。
「全部とは言わない。俺が許可してない写真を中心に、消せ」
エサを目の前にしてじっと我慢しておすわりしていたのに、お許しが出たとたん、他の犬にそのエサを食べられてしまった…、そんな情けない表情に香藤はなった。
「そんなぁ〜、無茶言わないでよ岩城さん」
岩城は香藤に無言の圧力をかけた。
「そりゃ、勝手に撮ったのは悪かったと思ってるよ!でもこの写真はどれも、俺にとっては家宝みたいなものなんだよ」
「そんなこと言ったってお前、そもそもフォルダの容量が足りなくなってきてるんだろ?じゃあどっちにしろ何か消さなきゃならなくなるんだろうに」
ほら、消せと岩城は香藤に携帯を押しつけた。容赦する気はないようだ。
対する香藤は携帯を受け取ったものの、指を動かすでもなく、じっと岩城を見つめるばかりだ。
岩城も無言でにらみ返す。香藤が削除を実行するまで、目を離さないつもりらしい。

沈黙の帳が下りる。

だんだんと香藤の表情がなさけないものから、泣き出しそうなものへと変わっていった。
しかし岩城はその程度では籠絡されない。
こういう場面になると、岩城は俄然強さを発揮するのだ。
結局香藤の根負けであった。
香藤はしぶしぶというより、未練丸出しで携帯を操作した。これでもかというくらい時間をかけてファイルを20ほど選び出すと、削除を実行する。
香藤は顔を上げた。
本当なら、岩城の許可を取っていない写真はもっとあるのだが、これ以上はどうしたっていやだ、という意思表示をしたのである。
するとそれまで香藤の指先から目を離さずにいた岩城が、香藤と目を合わせてふっと微笑みかけ、香藤の頭をくしゃっと撫でたのだった。
どうやらこれで、この件はおしまいということらしい。
香藤も全身の力を抜くとふっと息をつく。
そのまま香藤がねだるように目をつむると、岩城がそっと唇に触れるだけのキスをくれた。




しかし、岩城はもっと考えるべきだった。
あの香藤が、やむを得ない事情から、しぶしぶとはいえ隠し撮りした岩城の写真をそう簡単に削除するものであろうか。それも1つや2つではなく、20ものファイルを。

そう、香藤は携帯で撮った岩城の写真を、携帯に保存しておくだけではなく、メールに添付して自分のパソコンに転送し、あらためて保存していたのである。だからたとえ携帯のファイルを削除したとしても、パソコンには同じデータが保存されているので、実は痛くもかゆくもないのである。ただ携帯から削除してしまうと、出先で岩城の写真を見たくなっても見ることはできなくなる、というただそれだけの話だ。もちろんそのことを、岩城は知る由もなかった。

―――重要なデータは早めにバックアップをとるなり、転送するなりすること―――
それが北海道は熊穴で得た、香藤の教訓だ。





最後までお読みいただきまして、本当にありがとうございます。
なお、この文章は日生舞さん、海田およぐさんのお二人に、もとネタを提供していただいてできあがったものです。この場を借りまして、お二人には深く御礼申し上げます。

2004年8月 夏嵐 拝



★専用掲示板の方で話題に出たものを夏嵐さんが形にしてくれましたv
(香籐くんの待ち受けには色んな岩城さんが・・・っていう話)
ひゃーーん、ありがとうございます!!!(^o^)
嬉しいです〜vvvv
香籐くん!よくやった!!
岩城さんのお尻、あのお尻・・・・私にも画像転送プリーズ!
(絶対嫌だ!って言われるだよ、きっと;;)
岩城さんは微妙にPC系に弱いような気がするのでこの通りかもv
夏嵐さんとっても楽しいお話ありがとうございます〜!